【18.12.14.】生存報告
読書や映画の感想記事すら更新しないまま半年が経過してしまいましたが、取り敢えず息はしております。
ですが、少し呼吸困難気味…。
去る2日に父が永眠いたしました。
罹患から9年、余命を宣告されてから半年強、父をモデルにした自作を読み聞かせで少しずつ聞いてもらっていたのですが、結末まで聞くことなく、その先を演じるように先に逝ってしまいました。
家族で唯一、創作の道に反対しないでくれた父が健在のうちに「作家になれたよ」と報告するのが私の目標の1つでしたが、泡沫の夢に終わってしまったことが何よりも悔しいです。
こちらの家庭にも要介護の高齢者がいるため、在宅介護を希望した父に最期まで付き添うことができなかったことも心残りです。
家人たちは皆「悔いの残らないよう、納得するまで傍についていてあげて」と理解を示してくれていたのですが、それによってこちらの家族に何かあったとき、後悔したくなかったので、家人たちの体調がよいときにのみ実家に戻って父に付き添う生活を選びました。
父を亡くして初めて、一番大きな「書く理由」は父に「でかした、よくがんばった」と褒めてもらうことにあったのだなと実感しました。
今は独居老人となった母への対応をどうすべきか、家人たちの体調不良や進路問題など、現実の問題が山積しており、もうしばらくは休眠状態になりそうです。
またいつか、創作を楽しめるときがくるといいなと思いつつ、今は現実問題に対処することに専念しようと思います。
サイト内ではないのですが、書き殴った作品から察してくださった方が何人かいらっしゃり、大変恐縮でした。
この場を借りて、お悔やみのメッセージ等を下さった方々に厚く御礼申し上げます。
また、すっかり更新されなくなったサイトに立ち寄ってくださった方々や、今年お世話になった皆様に感謝申し上げます。
上述の理由により、新年のご挨拶を控えさせていただくことをお許しください。
ですが、少し呼吸困難気味…。
去る2日に父が永眠いたしました。
罹患から9年、余命を宣告されてから半年強、父をモデルにした自作を読み聞かせで少しずつ聞いてもらっていたのですが、結末まで聞くことなく、その先を演じるように先に逝ってしまいました。
家族で唯一、創作の道に反対しないでくれた父が健在のうちに「作家になれたよ」と報告するのが私の目標の1つでしたが、泡沫の夢に終わってしまったことが何よりも悔しいです。
こちらの家庭にも要介護の高齢者がいるため、在宅介護を希望した父に最期まで付き添うことができなかったことも心残りです。
家人たちは皆「悔いの残らないよう、納得するまで傍についていてあげて」と理解を示してくれていたのですが、それによってこちらの家族に何かあったとき、後悔したくなかったので、家人たちの体調がよいときにのみ実家に戻って父に付き添う生活を選びました。
父を亡くして初めて、一番大きな「書く理由」は父に「でかした、よくがんばった」と褒めてもらうことにあったのだなと実感しました。
今は独居老人となった母への対応をどうすべきか、家人たちの体調不良や進路問題など、現実の問題が山積しており、もうしばらくは休眠状態になりそうです。
またいつか、創作を楽しめるときがくるといいなと思いつつ、今は現実問題に対処することに専念しようと思います。
サイト内ではないのですが、書き殴った作品から察してくださった方が何人かいらっしゃり、大変恐縮でした。
この場を借りて、お悔やみのメッセージ等を下さった方々に厚く御礼申し上げます。
また、すっかり更新されなくなったサイトに立ち寄ってくださった方々や、今年お世話になった皆様に感謝申し上げます。
上述の理由により、新年のご挨拶を控えさせていただくことをお許しください。
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| 2018-12-14 | Memo |
【18.06.11.】『ジェーン・エア』鑑賞

ジェーン・エア [Blu-ray](Happinet(SB)(D))
ジェーン・エア [DVD](Happinet(SB)(D))
あらすじ:
結婚式の朝、ジェーンは知った。
最愛の人の恐ろしい秘密。
屋敷の隠し部屋に、幽閉した「妻」がいることを―。
運命はジェーン・エアに、過酷なカードを配った。
幼くして両親を亡くし、裕福だが愛情のカケラもない伯母に引き取られ、無理矢理入れられた寄宿学校では理不尽な扱いを受ける。
それでもジェーンは、決して屈することなく、信念と知性で自ら望む道を切り開き、名家の家庭教師という職を手に入れる。
充実した日々を送るジェーンの前に、気難しくどこか陰のある屋敷の主人ロチェスター氏が現れる。
やがて二人は互いの独特な感性や考え方に惹かれ合い、ロチェスター氏は身分の違いを越えてジェーンに結婚を申し込む。
だが、彼には恐ろしい秘密があった。
それは、屋敷の隠し部屋に幽閉した妻という存在だった―。
(amazon商品の説明より)
ジェーン・エア:(字) (2011年版)
https://www.happyon.jp/watch/60502720
※huluで公開中です。
【つづきは感想です】
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映画『ジェーン・エア』予告編/映画ナビ
Jane Eyre Movie Trailer Official (HD)/ScreenJunkies News
2011年版を鑑賞しました。
関心を持ってもらえそうな動画を探したら、海外の公式らしきアカウントを見つけました。
日本配信版よりもこちらのほうが内容に触れた構成のトレーラーになっていると思ったのと、どうやら日本で公開されていないシーンも盛り込まれているっぽく、それのほうが原作に忠実っぽい気がしたので、自分の備忘録も兼ねて両方貼り付けてみました。
動画を張りまくりたいくらいには、映像が美しかったです!
原作のほうは、先般反省したばかりにも関わらず、荒っぽい読み方しかできなかったので、近々また借り直して、今度こそ精読しようと思いつつ、先にhuluで映像を鑑賞した次第です。
粗い読み方ながらも原作を読んでから鑑賞して正解でした。
全P850ほどもある大長編を2時間の枠で収めるのは至難の業だったのだろうと思います。
細かな設定やエピソードが随分と省かれていたので、一部ダイジェストなところがありました。
ジェーンが物心つく前に両親を亡くし、リード家に引き取られた経緯は一切なく、リード家の誰がどの子で、という部分は原作未読だと分からないかも、です。
また、セント・ジョン・エア・リバース氏とジェーンが従兄妹関係にあることにも触れておらず、自分の恩人だから家族になりたい、とジェーンが自分の遺産をリバース兄妹と4分割する、という話に変わっていた(または従兄妹関係であることを鑑賞者が知っている前提としていた)ところが原作との違いかな、と。
セント・ジョン氏との従兄妹関係が端折られていることと、セント・ジョン氏の人となりについてのエピソードがほとんどないので、映画だと彼が当て馬のように見えてしまいまして…ちょっと、気の毒な振られキャラになっていた感が…。
彼には彼なりの信仰からくる確固たる強い意志があり、そこがジェーンと「血筋だなあ」と納得させる人物であり、原作では無自覚な男尊女卑にイラっとしつつも嫌いにはなれない不器用な善人という人だったのですが、映画ではただの我欲キャラに見えてしまいました…。
あと、映画ではリード夫人が最期のときに善人になっていました。
うー…ん、原作では、最期までジェーンを憎み疎んでいる感じだったのですが、もしかすると私の読み違えかもしれないので読み直します。汗
原作との最大の相違点、声を大にして言いたい!←笑
・ロチェスター氏の設定、いかつくて女性から疎まれがちな顔立ち(今風で言うところのブサメン)
・容姿端麗が淑女として最低限必要なのが当たり前とされる風潮の中、二言目には「美人ではない」と言われてしまうほど美しくないジェーン
原作におけるこの設定、キャスティングでガン無視ですよ!!(大変美味しゅうございました)
ロチェスター氏のパーソナリティとして、
「横柄」「気分屋」「激しい気性」「子供に辛辣」
もう、本当にそのままの演技脚本です。
なのに、原作では鼻についたそれらが…っ。
マイケル・ファスベンダー氏が演じると、いちいちカッコよくて不遜さが様になっていてどうしたものかと…っ。
あ、語彙が…となっていて、巧く言葉にできないのですが…あの配役では、ジェーンをライバル視するイングラム嬢はロチェスター氏の財産目当てで色目を使っていると言うより、ガチ恋でしょう、としか映像からは受け取れずですね…映像しか見ていない人に誤解を与えます。笑
ロチェスター氏については、映像だともう「ステキ」「カッコいい」「俺様万歳」しか言葉が出ないのでそろそろ自重します…。(赤面)
ジェーンを演じたミア・ワシコウスカ女史は、美人というか、可愛いという言葉がふさわしい女優さんで、やはり素晴らしい演技で原作で感じたジェーンの内面や彼女らしさを醸し出していたのですが、唯一「違う、そうじゃない」と思ったのが「美しくない」という原作との相違点でした。
ジェーンの潔癖さや、凛とした姿勢、ジェーンの持つ固い意志を表す表情など、どれもこれも「ホンマそれ!」という感じなのですが、ロチェスター氏とのやり取りの中で、次第に恋する乙女になっていく表情などは、もう可愛いとしか言いようがなく…美人じゃないとかなぜ周囲がそういう評価になる、という違和感でいっぱいなくらい、可愛い…ああ、ジェーンのキャスティングについても語彙が…。
ジェーンのよき話し相手であるフェアファックス夫人は、原作でイメージしていたよりも若々しくゴシップ好きなおばさんという雰囲気で、映像化作品では、彼女がロチェスター氏の妻の存在を知っていたのかどうか、どちらともとれる脚本だったように思います。
(原作では知らずにいました)
ロチェスター氏が妻の存在を隠していた理由が、原作より少し端折られていたので、印象としては
・発狂したから監禁した
・精神病院ではもっと扱いが酷いから、家に匿うほうがマシと考えた
・ロチェスター氏の妻、メイソン家が家系として精神障害に至るという設定はカット
これらの変更(?)のために、ロチェスター氏がちょっと冷たい印象が増した感がありました…。
でも、ジェーンに必死で縋る姿はもだえ苦しみました…。
原作にはなかったんですよね、あの必死さが。(私の読み落としかもしれませんが)
このシーンでロチェスター氏にやられた私です…。
同時に、このシーンでジェーンが、
「主よ、お力をお貸しください」
と苦しげに天を仰いで涙を零し、直後、ロチェスター氏を振りほどいて部屋から出ていきます。
原作ではかなり長い文字数を割いてジェーンの心情を語っているのですが、映像ではこの短い一言にすべてが集約されていたために却って見る人の胸に突き刺さりました…。
映像化された作品は、原作よりも恋愛要素に重点を置いた脚本になっている感じです。
私がこの時代に無知だから以下のように感じるのかもしれませんが、この当時の時代背景を知っているかどうかで印象が変わるかもしれないな、とも思います。
今よりも神が全知全能で信じられており、女性が意思を持つことなどあり得ない前提で世の中が回っている社会で、ジェーンの行動がどれだけ当時受け入れられず、奇異ではしたなく精神を疑われるほど特異だったか、というのを知らずに見ると、その苦難が想像つかないと申しましょうか…。
自分を尊重し、自分らしく生き、自分の心に忠実=神の教えに従い(自分にも)嘘をつかずに生きることが、どれだけ困難であり、同時にどれだけ当時の女性の一部が望んでいたことなのか、ということを考えさせられる物語です。
ロチェスター氏に萌えすぎて、まともな感想が書けなかった自分がツライ…と猛省しながら、そろそろ終わりにしておきます…(逃)
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映画『ジェーン・エア』予告編/映画ナビ
Jane Eyre Movie Trailer Official (HD)/ScreenJunkies News
2011年版を鑑賞しました。
関心を持ってもらえそうな動画を探したら、海外の公式らしきアカウントを見つけました。
日本配信版よりもこちらのほうが内容に触れた構成のトレーラーになっていると思ったのと、どうやら日本で公開されていないシーンも盛り込まれているっぽく、それのほうが原作に忠実っぽい気がしたので、自分の備忘録も兼ねて両方貼り付けてみました。
動画を張りまくりたいくらいには、映像が美しかったです!
原作のほうは、先般反省したばかりにも関わらず、荒っぽい読み方しかできなかったので、近々また借り直して、今度こそ精読しようと思いつつ、先にhuluで映像を鑑賞した次第です。
粗い読み方ながらも原作を読んでから鑑賞して正解でした。
全P850ほどもある大長編を2時間の枠で収めるのは至難の業だったのだろうと思います。
細かな設定やエピソードが随分と省かれていたので、一部ダイジェストなところがありました。
ジェーンが物心つく前に両親を亡くし、リード家に引き取られた経緯は一切なく、リード家の誰がどの子で、という部分は原作未読だと分からないかも、です。
また、セント・ジョン・エア・リバース氏とジェーンが従兄妹関係にあることにも触れておらず、自分の恩人だから家族になりたい、とジェーンが自分の遺産をリバース兄妹と4分割する、という話に変わっていた(または従兄妹関係であることを鑑賞者が知っている前提としていた)ところが原作との違いかな、と。
セント・ジョン氏との従兄妹関係が端折られていることと、セント・ジョン氏の人となりについてのエピソードがほとんどないので、映画だと彼が当て馬のように見えてしまいまして…ちょっと、気の毒な振られキャラになっていた感が…。
彼には彼なりの信仰からくる確固たる強い意志があり、そこがジェーンと「血筋だなあ」と納得させる人物であり、原作では無自覚な男尊女卑にイラっとしつつも嫌いにはなれない不器用な善人という人だったのですが、映画ではただの我欲キャラに見えてしまいました…。
あと、映画ではリード夫人が最期のときに善人になっていました。
うー…ん、原作では、最期までジェーンを憎み疎んでいる感じだったのですが、もしかすると私の読み違えかもしれないので読み直します。汗
原作との最大の相違点、声を大にして言いたい!←笑
・ロチェスター氏の設定、いかつくて女性から疎まれがちな顔立ち(今風で言うところのブサメン)
・容姿端麗が淑女として最低限必要なのが当たり前とされる風潮の中、二言目には「美人ではない」と言われてしまうほど美しくないジェーン
原作におけるこの設定、キャスティングでガン無視ですよ!!(大変美味しゅうございました)
ロチェスター氏のパーソナリティとして、
「横柄」「気分屋」「激しい気性」「子供に辛辣」
もう、本当にそのままの演技脚本です。
なのに、原作では鼻についたそれらが…っ。
マイケル・ファスベンダー氏が演じると、いちいちカッコよくて不遜さが様になっていてどうしたものかと…っ。
あ、語彙が…となっていて、巧く言葉にできないのですが…あの配役では、ジェーンをライバル視するイングラム嬢はロチェスター氏の財産目当てで色目を使っていると言うより、ガチ恋でしょう、としか映像からは受け取れずですね…映像しか見ていない人に誤解を与えます。笑
ロチェスター氏については、映像だともう「ステキ」「カッコいい」「俺様万歳」しか言葉が出ないのでそろそろ自重します…。(赤面)
ジェーンを演じたミア・ワシコウスカ女史は、美人というか、可愛いという言葉がふさわしい女優さんで、やはり素晴らしい演技で原作で感じたジェーンの内面や彼女らしさを醸し出していたのですが、唯一「違う、そうじゃない」と思ったのが「美しくない」という原作との相違点でした。
ジェーンの潔癖さや、凛とした姿勢、ジェーンの持つ固い意志を表す表情など、どれもこれも「ホンマそれ!」という感じなのですが、ロチェスター氏とのやり取りの中で、次第に恋する乙女になっていく表情などは、もう可愛いとしか言いようがなく…美人じゃないとかなぜ周囲がそういう評価になる、という違和感でいっぱいなくらい、可愛い…ああ、ジェーンのキャスティングについても語彙が…。
ジェーンのよき話し相手であるフェアファックス夫人は、原作でイメージしていたよりも若々しくゴシップ好きなおばさんという雰囲気で、映像化作品では、彼女がロチェスター氏の妻の存在を知っていたのかどうか、どちらともとれる脚本だったように思います。
(原作では知らずにいました)
ロチェスター氏が妻の存在を隠していた理由が、原作より少し端折られていたので、印象としては
・発狂したから監禁した
・精神病院ではもっと扱いが酷いから、家に匿うほうがマシと考えた
・ロチェスター氏の妻、メイソン家が家系として精神障害に至るという設定はカット
これらの変更(?)のために、ロチェスター氏がちょっと冷たい印象が増した感がありました…。
でも、ジェーンに必死で縋る姿はもだえ苦しみました…。
原作にはなかったんですよね、あの必死さが。(私の読み落としかもしれませんが)
このシーンでロチェスター氏にやられた私です…。
同時に、このシーンでジェーンが、
「主よ、お力をお貸しください」
と苦しげに天を仰いで涙を零し、直後、ロチェスター氏を振りほどいて部屋から出ていきます。
原作ではかなり長い文字数を割いてジェーンの心情を語っているのですが、映像ではこの短い一言にすべてが集約されていたために却って見る人の胸に突き刺さりました…。
映像化された作品は、原作よりも恋愛要素に重点を置いた脚本になっている感じです。
私がこの時代に無知だから以下のように感じるのかもしれませんが、この当時の時代背景を知っているかどうかで印象が変わるかもしれないな、とも思います。
今よりも神が全知全能で信じられており、女性が意思を持つことなどあり得ない前提で世の中が回っている社会で、ジェーンの行動がどれだけ当時受け入れられず、奇異ではしたなく精神を疑われるほど特異だったか、というのを知らずに見ると、その苦難が想像つかないと申しましょうか…。
自分を尊重し、自分らしく生き、自分の心に忠実=神の教えに従い(自分にも)嘘をつかずに生きることが、どれだけ困難であり、同時にどれだけ当時の女性の一部が望んでいたことなのか、ということを考えさせられる物語です。
ロチェスター氏に萌えすぎて、まともな感想が書けなかった自分がツライ…と猛省しながら、そろそろ終わりにしておきます…(逃)
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| 2018-06-11 | Movies Revies |
【18.05.31.】『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』鑑賞

アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発 [DVD](Happinet)
『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告
あらすじ:
1961年8月、イェール大学でスタンレー・ミルグラム博士の実験が開始された。
実験は一人が先生、もう一人は学習者となり、先生役が問題を出題。
別室にいる学習者役が答えを間違えると電気ショックが与えられ、間違えるごとに電圧は上げられる。
くじ引きで役割は分けられたが、学習者役は実験の協力者で、被験者は常に先生役になるように操作されていた。
学習者は次第に呻き声をあげるも、被験者=先生役の電気ショックの手は止まらない。
ほとんどの被験者は戸惑いながらも実験の継続を促されると最後の450V(ボルト)まで電気ショックを与え続けた。
この実験は、ナチスによるホロコースト(大量虐殺)がどのように起こったのか?普通の人々が権威にどこまで服従するのか科学的に実証することが目的だったが、その結果は社会に大きな衝撃を与えることに…。
世界で最も有名な心理実験“アイヒマン実験"と実験をしたスタンレー・ミルグラム教授を描いた実話を映画化。
(「キネマ旬報社」データベースより)
【つづきは感想です】
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レビューを見るとなかなかの酷評…。^^;
ミルグラム博士の実験について初見か既知かで評価が分かれる作品なのかもしれません。
私は『服従実験』のことを知らなかったので面白く(興味深く)鑑賞しました。
感覚としては、「映画作品=ストーリーを楽しむ」というよりも、「教科書では面白く感じないから頭に入らないけれど、漫画やアニメで読むと頭にサクサク入っていく漫画世界史(とか日本史)」みたいな感覚です。
作中で「哲学者から感情論や道徳観を排除すると社会学者になる」という表現がありましたが、なるほどと思いました。
「服従実験って何?」という人にはオススメです。
基本的にドキュメンタリーを見ている感じで、ミルグラム博士の心情にスポットを当てているわけではない気がします。
原題は『Experimenter(実験者)』とのことで、内容的に邦題は大袈裟なのでは?という意見が多いようです。
私はタイトルを見て、ミルグラム博士がアイヒマンの後継者のような存在に変貌していくストーリー展開(映画『es』みたいに、関係者が役に嵌り切っていくにしたがって狂暴化する、みたいな)なのかと思って観始めたのですが、そんなことはなかった。笑
邦題についての受け取り方は様々だと思うのですが、邦題の解釈については、作中で出てきた台詞
「人間には3種類いる」
「1つは行動する者」
「1つはそれを傍観する者」
「もう1つは、“何が起こっているんだ!?”と問い質す(だったかな?;)者」
のどこに自分が属しているかを自己判断する切欠になりそうという気がしました。
私の解釈は
アイヒマンの後継者=世界中にいる人間のうちの65%の比喩
ミルグラム博士の恐るべき告発=残りの35%が抱く感想
です。
関心を引くという意味でセンスが光る邦題だと思いました。
同時に、「あー…私は65%の人間だ…」「傍観者ポジだ…」と、とても嫌な気持ちになりました(苦笑)
今は時代がかなり変わりましたが、当時(ミルグラム博士はユダヤ人で、ホロコーストに強い関心を持っている人で、まだまだ戦争の傷が人々の心に残っている時代の人です)の人たちには受け入れがたい実験結果だったのだろうなと思います。
「我がこと」として「あなたもアイヒマンの後継者になる可能性がある」と言われたら、今の人でも大半が受け入れられないのではないかと。
ミルグラム博士は実際にマスコミや学会、異種学問の学者たちから「人間の倫理観に対する冒とく」「キミの実験は不愉快だ」などと強く批判されています。
物語として(=映画作品として)辛口が多いのは、こういった批判などに葛藤するミルグラム博士の「人間らしさ」があまり掘り下げられていないため、ストーリーの構成に起伏を感じないからではないかと思いました。
エンタメとしては失敗かもしれませんが、観賞する側の琴線に触れるストーリーにしようとするならどうすれば、と考えると難しいとも思いました。
この作品のコンセプトになっている『服従実験』で検証しているのが、
【文化的社会を築く人間が権威に服従する原因は、状況なのか人間の性質なのか】
だから、「映画」という「狭い空間(=世界)」で、「作品(=権威)」が心理的な偏りを含む(=博士の葛藤や生活など)と、作品との矛盾が生じてしまう気がするのです…。
50年にわたる実験の繰り返しの中で、
「何もない空をじっと見上げていると、次第に空を見上げる人が増えてくる」
という実験も行われています。
・誰にも強制されていない
・自分の身に危険が及ぶ状況ではない
それにも関わらず、同調して「何かあるのか?」と見上げてしまうという結果が出ているんですね。
仕掛け人の「空を見上げる行為」が、この作品で省かれた「実験に関わった仕掛け人たちの気持ち」ではないかな、と考えてみると、この作品は物語ではなくレポートのような作品だと思いました。
善悪の話ではなく、「人間の65%はこうである」という、そこにある事実として、
・人は状況によって「権威」に服従してしまう
・人は「代理人化」=責任を負わなくて済む状況にあると個人が持つ倫理から外れても権威に服従してしまう
・集団効果で判断に変容が生じる
(この実験の場合、被験者は命じる学者の向こうに「この実験は必要」と考える集団を見ている)
ということを流布するために、ミルグラム実験を広める目的で作られた作品だったのかな、と思いました。
(私がこの作品で知ったからそう感じただけという気もしますが)
アイヒマンの裁判の映像も作中で使われていますが、彼は
「自分は命じられた仕事をしただけだ」
「嗜虐を目的としていたわけではない」
といった趣旨のことを述べています。
めちゃくちゃ「普通の人」だったみたいですよね…。
(参照:イエルサレムのアイヒマン)
(取り敢えずwikiを参照リンクしましたが、書籍があるらしいので…たっか!と思うので、なんとか探してみたいなと思ってます…)
少し気になった(?)点は、比率としてはかなり少ない、ミルグラム博士のプライベートな部分。
隙間時間に観た感じなので取りこぼしているのだと思いますが、博士が妻と喧嘩をしたのか、
「結婚生活は、選択だ。僕はそれを選んでいる。いつだって、いつでも僕はそれを選んでいる」
と、妻に信じてほしいみたいなことを訴えるシーンがありました。
批判や誹謗中傷が多い中、学者として、研究者としてあちこち飛び回る日々の博士は、それを「状況によってさせられている」のではなく「自分の意志だ」と自分に言い含めているのだろうか、同じくらい、家族との暮らしも「自分の意志で選択したものである」と訴えているのかな、とか。
人は「状況で無自覚に使役される存在」というだけでなく、「自ら選ぶこともできる存在」という前向きな可能性も明示したかったのだろうか、と思ったりします。
実存主義の創始者と言われている哲学者、キルケゴールの
「人生は後ろ向きにしか理解することができない。しかし、前を向いてのみしか生きられない」
という言葉が引用されています。
日本語訳では作中で
「人生は後ろ向きに理解して、前向きに生きるものだ」
と訳されています。
昨今、世間を賑わせている出来事を彷彿とさせる実験内容とその結果です。
「人とは」というより「自分」も、状況によっては、個の持つ倫理や道徳、良心を押し殺してでも非人道的な行為に走る」という可能性を受け入れつつ、同時に「自ら選ぶことができる存在でもある」ことも忘れずに、事実のみを冷静に見極めて判断することが肝要、と自戒頻りな作品でした。
作品内容が、というか、ミルグラム実験が、というべきか…?(苦笑)
この実験のあらましをご存知ない方に観ていただけるといいな、と思います。
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レビューを見るとなかなかの酷評…。^^;
ミルグラム博士の実験について初見か既知かで評価が分かれる作品なのかもしれません。
私は『服従実験』のことを知らなかったので面白く(興味深く)鑑賞しました。
感覚としては、「映画作品=ストーリーを楽しむ」というよりも、「教科書では面白く感じないから頭に入らないけれど、漫画やアニメで読むと頭にサクサク入っていく漫画世界史(とか日本史)」みたいな感覚です。
作中で「哲学者から感情論や道徳観を排除すると社会学者になる」という表現がありましたが、なるほどと思いました。
「服従実験って何?」という人にはオススメです。
基本的にドキュメンタリーを見ている感じで、ミルグラム博士の心情にスポットを当てているわけではない気がします。
原題は『Experimenter(実験者)』とのことで、内容的に邦題は大袈裟なのでは?という意見が多いようです。
私はタイトルを見て、ミルグラム博士がアイヒマンの後継者のような存在に変貌していくストーリー展開(映画『es』みたいに、関係者が役に嵌り切っていくにしたがって狂暴化する、みたいな)なのかと思って観始めたのですが、そんなことはなかった。笑
邦題についての受け取り方は様々だと思うのですが、邦題の解釈については、作中で出てきた台詞
「人間には3種類いる」
「1つは行動する者」
「1つはそれを傍観する者」
「もう1つは、“何が起こっているんだ!?”と問い質す(だったかな?;)者」
のどこに自分が属しているかを自己判断する切欠になりそうという気がしました。
私の解釈は
アイヒマンの後継者=世界中にいる人間のうちの65%の比喩
ミルグラム博士の恐るべき告発=残りの35%が抱く感想
です。
関心を引くという意味でセンスが光る邦題だと思いました。
同時に、「あー…私は65%の人間だ…」「傍観者ポジだ…」と、とても嫌な気持ちになりました(苦笑)
今は時代がかなり変わりましたが、当時(ミルグラム博士はユダヤ人で、ホロコーストに強い関心を持っている人で、まだまだ戦争の傷が人々の心に残っている時代の人です)の人たちには受け入れがたい実験結果だったのだろうなと思います。
「我がこと」として「あなたもアイヒマンの後継者になる可能性がある」と言われたら、今の人でも大半が受け入れられないのではないかと。
ミルグラム博士は実際にマスコミや学会、異種学問の学者たちから「人間の倫理観に対する冒とく」「キミの実験は不愉快だ」などと強く批判されています。
物語として(=映画作品として)辛口が多いのは、こういった批判などに葛藤するミルグラム博士の「人間らしさ」があまり掘り下げられていないため、ストーリーの構成に起伏を感じないからではないかと思いました。
エンタメとしては失敗かもしれませんが、観賞する側の琴線に触れるストーリーにしようとするならどうすれば、と考えると難しいとも思いました。
この作品のコンセプトになっている『服従実験』で検証しているのが、
【文化的社会を築く人間が権威に服従する原因は、状況なのか人間の性質なのか】
だから、「映画」という「狭い空間(=世界)」で、「作品(=権威)」が心理的な偏りを含む(=博士の葛藤や生活など)と、作品との矛盾が生じてしまう気がするのです…。
50年にわたる実験の繰り返しの中で、
「何もない空をじっと見上げていると、次第に空を見上げる人が増えてくる」
という実験も行われています。
・誰にも強制されていない
・自分の身に危険が及ぶ状況ではない
それにも関わらず、同調して「何かあるのか?」と見上げてしまうという結果が出ているんですね。
仕掛け人の「空を見上げる行為」が、この作品で省かれた「実験に関わった仕掛け人たちの気持ち」ではないかな、と考えてみると、この作品は物語ではなくレポートのような作品だと思いました。
善悪の話ではなく、「人間の65%はこうである」という、そこにある事実として、
・人は状況によって「権威」に服従してしまう
・人は「代理人化」=責任を負わなくて済む状況にあると個人が持つ倫理から外れても権威に服従してしまう
・集団効果で判断に変容が生じる
(この実験の場合、被験者は命じる学者の向こうに「この実験は必要」と考える集団を見ている)
ということを流布するために、ミルグラム実験を広める目的で作られた作品だったのかな、と思いました。
(私がこの作品で知ったからそう感じただけという気もしますが)
アイヒマンの裁判の映像も作中で使われていますが、彼は
「自分は命じられた仕事をしただけだ」
「嗜虐を目的としていたわけではない」
といった趣旨のことを述べています。
めちゃくちゃ「普通の人」だったみたいですよね…。
(参照:イエルサレムのアイヒマン)
(取り敢えずwikiを参照リンクしましたが、書籍があるらしいので…たっか!と思うので、なんとか探してみたいなと思ってます…)
少し気になった(?)点は、比率としてはかなり少ない、ミルグラム博士のプライベートな部分。
隙間時間に観た感じなので取りこぼしているのだと思いますが、博士が妻と喧嘩をしたのか、
「結婚生活は、選択だ。僕はそれを選んでいる。いつだって、いつでも僕はそれを選んでいる」
と、妻に信じてほしいみたいなことを訴えるシーンがありました。
批判や誹謗中傷が多い中、学者として、研究者としてあちこち飛び回る日々の博士は、それを「状況によってさせられている」のではなく「自分の意志だ」と自分に言い含めているのだろうか、同じくらい、家族との暮らしも「自分の意志で選択したものである」と訴えているのかな、とか。
人は「状況で無自覚に使役される存在」というだけでなく、「自ら選ぶこともできる存在」という前向きな可能性も明示したかったのだろうか、と思ったりします。
実存主義の創始者と言われている哲学者、キルケゴールの
「人生は後ろ向きにしか理解することができない。しかし、前を向いてのみしか生きられない」
という言葉が引用されています。
日本語訳では作中で
「人生は後ろ向きに理解して、前向きに生きるものだ」
と訳されています。
昨今、世間を賑わせている出来事を彷彿とさせる実験内容とその結果です。
「人とは」というより「自分」も、状況によっては、個の持つ倫理や道徳、良心を押し殺してでも非人道的な行為に走る」という可能性を受け入れつつ、同時に「自ら選ぶことができる存在でもある」ことも忘れずに、事実のみを冷静に見極めて判断することが肝要、と自戒頻りな作品でした。
作品内容が、というか、ミルグラム実験が、というべきか…?(苦笑)
この実験のあらましをご存知ない方に観ていただけるといいな、と思います。
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| 2018-05-31 | Movies Revies |
【18.05.30.】『友罪』鑑賞

『友罪』本予告
あらすじ:
17年前─許されない罪を犯した男と、癒えることのない傷を抱えた男。
今、ふたりの過去と現在が交錯し、あの日から止まっていた時計が動き出す─。
何人もの人生を決定的に変えた“事件”は、ふたりの男の出会いから始まった─。
ある町工場で働き始めた、元週刊誌ジャーナリストの益田と、他人との交流を頑なに避ける鈴木。
共通点は何もなかったふたりだが、同じ寮で暮らすうちに、少しずつ友情を育ててゆく。
そんななか彼らが住む町の近くで児童殺人事件が起こり、SNSで17年前に日本中を震撼させた凶悪事件との類似性が指摘される。
当時14歳だった犯人の少年Aはすでに出所していて、今度も彼の犯行ではないかというのだ。
ネットに拡散していた少年Aの写真を見た益田は愕然とする。
そこにはまだ幼さの残る鈴木が写っていた。
驚きと疑問に突き動かされ、調査を始める益田。
それは、17年前に自ら犯した“ある罪”と向き合うことでもあった。
一度は人生を捨てたふたりの過去と現在が交錯し、止まっていた時計が激しく動き始める─。
それはまた、ふたりに関わる人々の人生も大きく動かすことになる─。
(映画『友罪』公式サイト・Introductionより)
【つづきはネタバレ感想です☆】
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公開5日後ですが、無事パンフレットも入手、自分の前には誰も座ることなくダイレクトにスクリーン真正面、という、ここ数年で最高に恵まれた環境での鑑賞と相成りました。
原作を先に読んでからの鑑賞です。
(原作の感想記事はコチラ)
また、映画作品では美代子と山内が益田や鈴木の勤務する町工場の社員ではないという設定変更があります。
予告PVを見て、かなり脚色されていると推察されたので、少しだけ残念に感じる部分があるのかもしれない、ということを念頭に置いていたのですが。
原作をとても丁寧且つストレートな表現で、エピソードが追加・変更されており、原作へのリスペクトに溢れる作品になっておりました。
キャラクターの設定変更箇所としては
1)鈴木の更生時代の教官・弥生の子供が「息子」ではなく「娘」
2)山内の職業をタクシードライバーに変更
3)山内の解散した家族の生き様と、山内一家の補強=詳細追加
4)美代子はテレオペ業務&クレーム対応
これらの変更に伴い、町工場の社長とその奥さんと美代子とのやり取り=いわゆる「普通の反応・対応」を描写していた原作のエピソードがごっそりなくなっています。
その分、益田の元恋人、清美の「普通の反応・対応」が際立っていました。
以下、変更点についての感想など。
1)弥生の子供を息子から娘へ変更した点
これは、原作で息子が恋人に堕胎させるというエピソードから
・命の重さ、尊さ
・我が子に対する愛情や掛け替えのなさ
などをひしひしと感じさせるエピソードだった部分が、娘に変更したことにより、母vs息子で展開されたそれよりも、子を産む「女性」として理屈を越えた弥生(母)と娘の共鳴を感じさせるエピソードに変わったことで、感極まってしまいました(苦笑)
「娘」=女性だからこそ、
「私も子供を殺したんだよね。これでやっとあの凶悪殺人犯と同じになったんだ」
という言葉に内包された「弥生の子供」であり「女性」であり、ほんのひとときでも「母親」にもなった娘の気持ちに触れた気がしました。
その言葉で思わず娘を叩いてしまう弥生、直後、はっとして「ごめんなさい」と呻くように呟く富田靖子さんの演技は、演技とは思えませんでした。
叩いたこと以上に、娘に流産を「子供殺し」「猟奇殺人犯と同じ」と思わせてしまうようなことに対する「ごめんなさい」と感じました。
弥生は、母親としての過失を悔やんでも悔やみ切れない想いで傷ついた娘を抱きしめたのだと思いました。
とてもとても重い「ごめんなさい」という6つの音でした。
2)山内の職業変更
3)山内の家族のエピソード追加
私は、大きく変更・追加された山内家族に起きた出来事と、最終的に山内がどういう選択をしたのか、という部分に、一番大きく感情を持っていかれました。
以下、露骨なネタバレになるので白文字にします。
自動車事故で子供3人の命を奪った息子とその両親が、家族をしていていいはずがない、と一家を解散した山内。
ですが、山内の妻の父が亡くなり、妻の母は認知症、妻の弟夫妻が親の介護を一手に引き受けている、という追加設定。
義弟は山内に
「介護も大変なんだ」
「あんたは家族を解散することで償っているつもりだろうが逃げているだけだ」
「頭を下げることに慣れてしまっているだけんだよ。あんたのやっていることはおかしいよ」
「こういうとき(償いや両親の介護と解釈しました)こそ家族で助け合うものなんじゃないか」
とそしります。
また、息子が結婚をしたい、相手のお腹には子供がいる、という事実を知らされ、山内は激怒します。
山内:
人さまの家族を奪ったおまえが家庭を作ってどうする
父親になったとき自分がどう感じると思っている。
おまえは生まれた子に、子供を3人殺したと言えるのか。
それに対し、山内の息子の婚約者が訴えるように尋ねます。
愛(山内の息子の婚約者):
罪を犯したら、幸せになっちゃいけないんですか。
一生不幸でいないといけないんですか。
周りの人は、一生不幸な姿を見続けていかなくちゃいけないんですか。
私はここで、山内に共感し(たつもりで)
「当たり前だ、幸せを感じたら感じた分だけ、罪悪感も増していって結局幸せになんかなれない」
「未だに被害者の遺族の傷が癒えなくて不幸なのに、自分たちが幸せを感じていいはずがないだろう」
と、山内の息子夫婦の赦されたいというエゴに不快感を覚えました。
でも、ラストシーンで、山内は信号待ちのとき、集団で登園する幼稚園児たちを見て、まばゆげに目を細めるのです。
情けないことに、私はパンフレットで山内を演じた佐藤浩市さんのインタビューを読むまで、山内がなぜここで憧憬(と感じました)の表情を浮かべたのか解りませんでした。
佐藤浩市さん:
(子供を殺した息子に)子供ができたということが、対外的にどうなのか。
そのことだけを彼(山内)は息子に言うけれど。
子が新しい生命を享受して生きていく。
それを喜ばない親なんていないわけですよ。
佐藤さんは「山内のこういう気持ちを表現した」という明確な答えを出さずに「(この作品を見た人に)判断していただきたい」とインタビューを締め括っています。
そして、パンフレットに載っている各業界の方(精神医療関係、評論、ライターさんなど)のコラムやレビューも合わせ読んだら、自分の不寛容さ、狭量さを思い知らされた気分になりました。
山内が息子に
「子供はどうした」
と尋ね、息子が電話口の向こうで泣きながら
「まだいる。愛のお腹の中ですくすく育ってる」
「これからは、家族と一緒に被害者とその遺族に償っていく」
「父さんはもう俺のことを忘れてくれ。俺も父さんのことを忘れる」
と答えます。
それに対して山内は、何とも言えない表情と声で
「そうか」
と言って電話を切ります。
その何とも言えない表情と声は、私に「なんで!?」と思わせるもの=許すような感じだったのですが…。
山内は、いつか家族がまた一緒に過ごせるようになると信じていた、と妻に激昂していました。
だけど、結果的には息子に「忘れてくれ」「俺も父さんのことを忘れる」と言われてしまいました。
(=家族は解散したまま)
精神科医で評論家の斎藤環先生は、パンフレットのコラムの中で、
「山内の中に息子を羨む気持ちがあったとは言えないだろうか」
と、1つの可能性をコラムで述べておられ、
「自分の償いの在りようを息子に押し付けることはエゴではないか」
「頭を下げて詫びることが本当に形骸化していないと言い切れるのか」
といったような問題提起をしていらっしゃいました。
問題提起をされたのは、もちろん鑑賞者です。(多分)
その上で、自分が山内の立場のとき、まだ被害者遺族が自分を立て直すこともできず、やり場のない気持ちを自分にぶつけてくる状況下で、どう受け止め考えるだろうか、と自分なりに思い巡らせたでのすが、いまだ答えが見つかりません。
原作を読んだときからずっと、ふと思い出しては考えているのですが、確固たる答えが出せない難題です。
考えることそのものが大事なのか、結局当事者になっていないゆるさから、そんな悠長に悩んでいられるのか─などなど、考えるほどに悶絶してしまいます。
ネタバレ・ここまで
ここにかなりの文字数を割いてしまうくらいには、原作から汲み取れない読者(私のことです。汗)にも考えるきっかけをくれる、映像による補強部分でした。
4)美代子が同僚ではない設定変更について
原作を読んだとき、鈴木と同僚である設定でない限り、人との関わりを避けたい2人が接触する尤もな状況や理由なんてないだろうと思っていたので、予告PVを観たときは、この部分に一番違和感を覚える内容に変わっているのだろうな、と考えていました。
でも、全然そんなことありませんでした。
もっと(いい意味で)シンプルに、より2人の根底にある「孤独」に焦点を当てた出会い方で、美代子の端折られた過去語りの部分が、原作ではあまり意識できなかった彼女の罪(自分で考えず周囲に流されて被害にばかり遭っている部分+埼玉で起きた子供の連続殺人事件の犯人が鈴木ではないかと疑ったことだと私は解釈しています)にクローズアップされており、鈴木を疑ったことで彼女は初めて自分が状況に流されている自分を認識して引っ越すという選択をした、という話の流れになっていたのは、明るいひと筋が差し込んだようなエンディングだったと思いました。
原作の美代子は、鈴木に恋をしたことで自我を持つことができ、強い一面を見せて益田を怯ませるほどの女性になりましたが、映画では読解力が乏しい私にも解りやすい美代子のキャラクターになっていました。
メインの益田&鈴木以外の主要人物の話でかなり書き殴ってしまいました…。
この2人にまつわる変更点と言えば、大きなものはなかったです。
1)鈴木と弥生の過去話はカット
(弥生の現在の状況から鈴木とも同様だったのだろうと推察できる脚本)
2)益田のトラウマとなっている学の母親が病死
1)で弥生が今受け持っている少年とのやり取り
院内でいじめを受けている少年が、耐え兼ねていじめの首謀者の首に刃物を突き立てようとしているところへ、弥生が必死の形相で
「いなくなっちゃう、ってことなんだよ!」
と訴えるシーンがあります。
詳細は実際に作品を鑑賞していただけたらと思いますが、私は弥生の訴えがものすごく綺麗ごとに聞こえてしまいました。
原作者である薬丸岳氏、そして映画化に当たってクランクイン直前まで脚本を何度も改稿していた瀬々監督のメッセージ(というか問い掛けというか願いというか…)を、きちんと汲み取れていない自分に気付かされて、かなり自己嫌悪しました…。
自分の不寛容さに猛省したものの、この作品にこめられている「願い」を叶える1人には到底なれそうにない、というのが今の自分です。
だから、そういう自分こそが、作品を通じて何度も何度も思い返しては考え続け、「他人事として断罪する驕り」を自分から排除する努力を怠ってはいけないと自身を振り返らせる作品とも言えます。
それと、原作を読んだときに、私も類にもれず、鈴木の犯した殺人事件と、世界中を震撼させた実際の事件とを結びつけて連想してしまいました。
そして、「これほど凶悪な事件を起こした人間が、友達(益田)の何気なく言った一言なんかでそうそう変われるはずがない。だって、実例があるじゃないか」と思ってしまったのですが、生田斗真さん演じる益田、そして瑛太さん演じる鈴木の「生きた人間」から見え隠れする所作・表情・口調etcによって、ようやくこの作品は、薬丸さんの「願い」であり「希望」であり、実社会における「可能性」の1つであり、本当は誰もが願う形なのかもしれない、と理解しました。
とにかく瑛太さんの鈴木という人間の作りがすごかったです。
原作では一切彼の視点がないのに、鈴木という人間がそこにいました。
そして、その圧倒的なパーソナリティの作りに食われない勢いで、生田さんもまた益田を1人の生きた人間としてリアルに表現しており、夜の公園でのシーンと、鈴木の記事が週刊誌に載った際の2人の短くも言外の想いが伝わり合うシーン、ラストにそれぞれが自分の罪と向き合うために向かった場所でのシーンは、
「もし自分が罪を償う立場になったとき、ここまで真摯に自分の犯した罪と向き合い、背負っていく覚悟ができるだろうか」
と、怖くなりました。
昨今、何かと世間が騒がしいです。
ネットでニュース関係を見ていると、糾弾の声が大きく、それは当然の感情であり正論でもあると思うので、否定する気持ちも間違っているとジャッジする気持ちもありませんが。
どこか「他人事」として俯瞰して物事をみているのではないか、「そんなことはない」ときっぱり言い切れるか、と、自分に不安を覚える心境になる作品でした。
手軽に正義感を味わえて、事件や事故を自分の中で勝手にエンタメ化させて次々と消費しているのではないか、という醜い自分になっているんじゃないかという不安です。
不寛容という言葉が散見されるようになって久しいこの頃ですが、だからこそ、この作品を多くの人に観ていただけたらいいな、と思わずにはいられませんでした。
「隣にいる人がもし○○だったら」
「もし自分が〇○の立場だったら」
常に、この質問を自分に投げ掛けていこうと思わせる作品でした。
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公開5日後ですが、無事パンフレットも入手、自分の前には誰も座ることなくダイレクトにスクリーン真正面、という、ここ数年で最高に恵まれた環境での鑑賞と相成りました。
原作を先に読んでからの鑑賞です。
(原作の感想記事はコチラ)
また、映画作品では美代子と山内が益田や鈴木の勤務する町工場の社員ではないという設定変更があります。
予告PVを見て、かなり脚色されていると推察されたので、少しだけ残念に感じる部分があるのかもしれない、ということを念頭に置いていたのですが。
原作をとても丁寧且つストレートな表現で、エピソードが追加・変更されており、原作へのリスペクトに溢れる作品になっておりました。
キャラクターの設定変更箇所としては
1)鈴木の更生時代の教官・弥生の子供が「息子」ではなく「娘」
2)山内の職業をタクシードライバーに変更
3)山内の解散した家族の生き様と、山内一家の補強=詳細追加
4)美代子はテレオペ業務&クレーム対応
これらの変更に伴い、町工場の社長とその奥さんと美代子とのやり取り=いわゆる「普通の反応・対応」を描写していた原作のエピソードがごっそりなくなっています。
その分、益田の元恋人、清美の「普通の反応・対応」が際立っていました。
以下、変更点についての感想など。
1)弥生の子供を息子から娘へ変更した点
これは、原作で息子が恋人に堕胎させるというエピソードから
・命の重さ、尊さ
・我が子に対する愛情や掛け替えのなさ
などをひしひしと感じさせるエピソードだった部分が、娘に変更したことにより、母vs息子で展開されたそれよりも、子を産む「女性」として理屈を越えた弥生(母)と娘の共鳴を感じさせるエピソードに変わったことで、感極まってしまいました(苦笑)
「娘」=女性だからこそ、
「私も子供を殺したんだよね。これでやっとあの凶悪殺人犯と同じになったんだ」
という言葉に内包された「弥生の子供」であり「女性」であり、ほんのひとときでも「母親」にもなった娘の気持ちに触れた気がしました。
その言葉で思わず娘を叩いてしまう弥生、直後、はっとして「ごめんなさい」と呻くように呟く富田靖子さんの演技は、演技とは思えませんでした。
叩いたこと以上に、娘に流産を「子供殺し」「猟奇殺人犯と同じ」と思わせてしまうようなことに対する「ごめんなさい」と感じました。
弥生は、母親としての過失を悔やんでも悔やみ切れない想いで傷ついた娘を抱きしめたのだと思いました。
とてもとても重い「ごめんなさい」という6つの音でした。
2)山内の職業変更
3)山内の家族のエピソード追加
私は、大きく変更・追加された山内家族に起きた出来事と、最終的に山内がどういう選択をしたのか、という部分に、一番大きく感情を持っていかれました。
以下、露骨なネタバレになるので白文字にします。
自動車事故で子供3人の命を奪った息子とその両親が、家族をしていていいはずがない、と一家を解散した山内。
ですが、山内の妻の父が亡くなり、妻の母は認知症、妻の弟夫妻が親の介護を一手に引き受けている、という追加設定。
義弟は山内に
「介護も大変なんだ」
「あんたは家族を解散することで償っているつもりだろうが逃げているだけだ」
「頭を下げることに慣れてしまっているだけんだよ。あんたのやっていることはおかしいよ」
「こういうとき(償いや両親の介護と解釈しました)こそ家族で助け合うものなんじゃないか」
とそしります。
また、息子が結婚をしたい、相手のお腹には子供がいる、という事実を知らされ、山内は激怒します。
山内:
人さまの家族を奪ったおまえが家庭を作ってどうする
父親になったとき自分がどう感じると思っている。
おまえは生まれた子に、子供を3人殺したと言えるのか。
それに対し、山内の息子の婚約者が訴えるように尋ねます。
愛(山内の息子の婚約者):
罪を犯したら、幸せになっちゃいけないんですか。
一生不幸でいないといけないんですか。
周りの人は、一生不幸な姿を見続けていかなくちゃいけないんですか。
私はここで、山内に共感し(たつもりで)
「当たり前だ、幸せを感じたら感じた分だけ、罪悪感も増していって結局幸せになんかなれない」
「未だに被害者の遺族の傷が癒えなくて不幸なのに、自分たちが幸せを感じていいはずがないだろう」
と、山内の息子夫婦の赦されたいというエゴに不快感を覚えました。
でも、ラストシーンで、山内は信号待ちのとき、集団で登園する幼稚園児たちを見て、まばゆげに目を細めるのです。
情けないことに、私はパンフレットで山内を演じた佐藤浩市さんのインタビューを読むまで、山内がなぜここで憧憬(と感じました)の表情を浮かべたのか解りませんでした。
佐藤浩市さん:
(子供を殺した息子に)子供ができたということが、対外的にどうなのか。
そのことだけを彼(山内)は息子に言うけれど。
子が新しい生命を享受して生きていく。
それを喜ばない親なんていないわけですよ。
佐藤さんは「山内のこういう気持ちを表現した」という明確な答えを出さずに「(この作品を見た人に)判断していただきたい」とインタビューを締め括っています。
そして、パンフレットに載っている各業界の方(精神医療関係、評論、ライターさんなど)のコラムやレビューも合わせ読んだら、自分の不寛容さ、狭量さを思い知らされた気分になりました。
山内が息子に
「子供はどうした」
と尋ね、息子が電話口の向こうで泣きながら
「まだいる。愛のお腹の中ですくすく育ってる」
「これからは、家族と一緒に被害者とその遺族に償っていく」
「父さんはもう俺のことを忘れてくれ。俺も父さんのことを忘れる」
と答えます。
それに対して山内は、何とも言えない表情と声で
「そうか」
と言って電話を切ります。
その何とも言えない表情と声は、私に「なんで!?」と思わせるもの=許すような感じだったのですが…。
山内は、いつか家族がまた一緒に過ごせるようになると信じていた、と妻に激昂していました。
だけど、結果的には息子に「忘れてくれ」「俺も父さんのことを忘れる」と言われてしまいました。
(=家族は解散したまま)
精神科医で評論家の斎藤環先生は、パンフレットのコラムの中で、
「山内の中に息子を羨む気持ちがあったとは言えないだろうか」
と、1つの可能性をコラムで述べておられ、
「自分の償いの在りようを息子に押し付けることはエゴではないか」
「頭を下げて詫びることが本当に形骸化していないと言い切れるのか」
といったような問題提起をしていらっしゃいました。
問題提起をされたのは、もちろん鑑賞者です。(多分)
その上で、自分が山内の立場のとき、まだ被害者遺族が自分を立て直すこともできず、やり場のない気持ちを自分にぶつけてくる状況下で、どう受け止め考えるだろうか、と自分なりに思い巡らせたでのすが、いまだ答えが見つかりません。
原作を読んだときからずっと、ふと思い出しては考えているのですが、確固たる答えが出せない難題です。
考えることそのものが大事なのか、結局当事者になっていないゆるさから、そんな悠長に悩んでいられるのか─などなど、考えるほどに悶絶してしまいます。
ネタバレ・ここまで
ここにかなりの文字数を割いてしまうくらいには、原作から汲み取れない読者(私のことです。汗)にも考えるきっかけをくれる、映像による補強部分でした。
4)美代子が同僚ではない設定変更について
原作を読んだとき、鈴木と同僚である設定でない限り、人との関わりを避けたい2人が接触する尤もな状況や理由なんてないだろうと思っていたので、予告PVを観たときは、この部分に一番違和感を覚える内容に変わっているのだろうな、と考えていました。
でも、全然そんなことありませんでした。
もっと(いい意味で)シンプルに、より2人の根底にある「孤独」に焦点を当てた出会い方で、美代子の端折られた過去語りの部分が、原作ではあまり意識できなかった彼女の罪(自分で考えず周囲に流されて被害にばかり遭っている部分+埼玉で起きた子供の連続殺人事件の犯人が鈴木ではないかと疑ったことだと私は解釈しています)にクローズアップされており、鈴木を疑ったことで彼女は初めて自分が状況に流されている自分を認識して引っ越すという選択をした、という話の流れになっていたのは、明るいひと筋が差し込んだようなエンディングだったと思いました。
原作の美代子は、鈴木に恋をしたことで自我を持つことができ、強い一面を見せて益田を怯ませるほどの女性になりましたが、映画では読解力が乏しい私にも解りやすい美代子のキャラクターになっていました。
メインの益田&鈴木以外の主要人物の話でかなり書き殴ってしまいました…。
この2人にまつわる変更点と言えば、大きなものはなかったです。
1)鈴木と弥生の過去話はカット
(弥生の現在の状況から鈴木とも同様だったのだろうと推察できる脚本)
2)益田のトラウマとなっている学の母親が病死
1)で弥生が今受け持っている少年とのやり取り
院内でいじめを受けている少年が、耐え兼ねていじめの首謀者の首に刃物を突き立てようとしているところへ、弥生が必死の形相で
「いなくなっちゃう、ってことなんだよ!」
と訴えるシーンがあります。
詳細は実際に作品を鑑賞していただけたらと思いますが、私は弥生の訴えがものすごく綺麗ごとに聞こえてしまいました。
原作者である薬丸岳氏、そして映画化に当たってクランクイン直前まで脚本を何度も改稿していた瀬々監督のメッセージ(というか問い掛けというか願いというか…)を、きちんと汲み取れていない自分に気付かされて、かなり自己嫌悪しました…。
自分の不寛容さに猛省したものの、この作品にこめられている「願い」を叶える1人には到底なれそうにない、というのが今の自分です。
だから、そういう自分こそが、作品を通じて何度も何度も思い返しては考え続け、「他人事として断罪する驕り」を自分から排除する努力を怠ってはいけないと自身を振り返らせる作品とも言えます。
それと、原作を読んだときに、私も類にもれず、鈴木の犯した殺人事件と、世界中を震撼させた実際の事件とを結びつけて連想してしまいました。
そして、「これほど凶悪な事件を起こした人間が、友達(益田)の何気なく言った一言なんかでそうそう変われるはずがない。だって、実例があるじゃないか」と思ってしまったのですが、生田斗真さん演じる益田、そして瑛太さん演じる鈴木の「生きた人間」から見え隠れする所作・表情・口調etcによって、ようやくこの作品は、薬丸さんの「願い」であり「希望」であり、実社会における「可能性」の1つであり、本当は誰もが願う形なのかもしれない、と理解しました。
とにかく瑛太さんの鈴木という人間の作りがすごかったです。
原作では一切彼の視点がないのに、鈴木という人間がそこにいました。
そして、その圧倒的なパーソナリティの作りに食われない勢いで、生田さんもまた益田を1人の生きた人間としてリアルに表現しており、夜の公園でのシーンと、鈴木の記事が週刊誌に載った際の2人の短くも言外の想いが伝わり合うシーン、ラストにそれぞれが自分の罪と向き合うために向かった場所でのシーンは、
「もし自分が罪を償う立場になったとき、ここまで真摯に自分の犯した罪と向き合い、背負っていく覚悟ができるだろうか」
と、怖くなりました。
昨今、何かと世間が騒がしいです。
ネットでニュース関係を見ていると、糾弾の声が大きく、それは当然の感情であり正論でもあると思うので、否定する気持ちも間違っているとジャッジする気持ちもありませんが。
どこか「他人事」として俯瞰して物事をみているのではないか、「そんなことはない」ときっぱり言い切れるか、と、自分に不安を覚える心境になる作品でした。
手軽に正義感を味わえて、事件や事故を自分の中で勝手にエンタメ化させて次々と消費しているのではないか、という醜い自分になっているんじゃないかという不安です。
不寛容という言葉が散見されるようになって久しいこの頃ですが、だからこそ、この作品を多くの人に観ていただけたらいいな、と思わずにはいられませんでした。
「隣にいる人がもし○○だったら」
「もし自分が〇○の立場だったら」
常に、この質問を自分に投げ掛けていこうと思わせる作品でした。
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| 2018-05-30 | Movies Revies |
【18.05.26.】『サイメシスの迷宮 逃亡の代償』感想

サイメシスの迷宮 逃亡の代償 アイダサキ・著(講談社タイガ)
あらすじ:
東京都下で起きた女児殺害事件。
超記憶症候群のプロファイラー・羽吹允は、遺棄の状況から8年前の和光市女児連続殺害事件を模倣していると気づく。
和光事件の犯人・入谷謙一はふた月前に獄中で病死していた。
相棒の神尾文孝とともに、羽吹が入谷の周辺を聞き込むうちに、第2の事件が。
第1の事件との微妙な差異に違和感を覚えた羽吹は、超記憶を駆使して事件の真相に迫る。
(「BOOK」データベースより)
参照:
シリーズ1作目『サイメシスの迷宮 完璧な死体』感想はコチラ
【つづきは感想です】
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前作『サイメシスの迷宮 完璧な死体』で続刊アリ(3部構成と聞いた気が)と分かってから、待ち遠しく思っていたので、今回は購入からそれほど間を開けないうちに読むことができました。
(相変わらず自分の時間確保が難しい…)
前作より真犯人が物語の中盤辺りで予測できる内容だと感じました。
この辺は、犯人を推理することに楽しみを置いていない私にとっては親切な話の運び。
事件解明の作品には、読者が主人公(探偵なり刑事なり)となって犯人を突き止めることを楽しめる作風のタイプと、事件解明に向けて主人公が葛藤や試行錯誤する心の動きを楽しませるタイプがあると思っているのですが、後者のタイプの作品だと思います。
東野圭吾さんの『赤い爪』やガリレオシリーズの一部などと似たカテゴリになるのではないかと。
前作の感想で、羽吹のハイパーサイメシア──超記憶症候群という障害について、私は「超記憶症候群というよりも、忘却不能生涯というほうが正しい気がする」と感想を述べたのですが、本作ではそれを覆されました。
写真のようにビジュアルを、今現在起きている出来事のように聞こえたこと、感じた臭い、そのとき抱いた恐怖などを克明に記憶してしまう障害という架空(多分、架空)の障害であるそれは、反復すること、不意に再現されたときに意図せず混ざる現在までの経験などにより、次第にゆがめられてゆき、交じり合ったそれらの『想像』が『記憶』にすり替わってゆくという下りを読んで、自分が前作で抱いた感想を論破された気分でした。
前作では主要人物である神尾と羽吹のキャラクター性の印象付けに文字数を割いた部分を感じたのですが、既に読者の中で補完されている彼らなので、本作では事件とその捜査の経緯に集中した話になっていて、より面白く読ませてもらいました。
英田サキ名義の作品を読み慣れている人には物語の中盤で真犯人が予想できていたのではないかと思いました。
この著者さんは、無駄な人間を書かないし、無駄な描写をしない方なので。
事件の真相を楽しむお話なので、ネタバレ無しの感想がかなり難しいのですが、過去の事件で犯人と確定して服役している人物の弟のパーソナリティは、実在のあの人やこの人を彷彿とさせて、暗澹とした気持ちになりました…。
今回の事件では、神尾の心境に近い感想を抱いてしまいました。
前作では、真犯人に共感できる点があまりにもなくて、羽吹と似た感覚を持ちながら読了したのですが、今回のお話では
大人の勝手に振り回されて人間性や境遇をゆがめさせられるのはいつだって子供
という部分がつらすぎて、相変わらずと言えば相変わらずですが、この著者さんの作品は日ごろ日常に忙殺して考えることのない「人としての在りよう」を自問させられる内容になっていました。
…いや、ちゃんとキャラ萌えなやり取りもありますけど…。
「逃亡の代償」というサブタイトルが痛い作品でもありました。
神尾以外の(羽吹含め)みんなが、無自覚だったり自覚していたりと様々な形で、それぞれの問題から目を逸らして逃げている。
その代償の大きさをそれぞれが痛感して、でもその痛みを抱えて生きていこうと決意する人もいれば、自分が逃げていたとようやく気付く者もいたり、苦い読後感でありながらも、苦いだけではない何か明るい一筋も感じさせてくれるお話でした。
ただまあ、第一事件の被害者の父親は、ねえ…(自重)
そして、また出て来ました、“友達”…。
あの落書きに、そういう意味があったのか、と最後にまたぞわっとさせられる終わり方でした。
羽吹の名前を知っている人物、敢えて「羽吹」ではなく「允」に執着する人物が“友人”ということなんだろうな、と読み返してみたのですが、推理モノが苦手な私は、まだ予想ができていません。
現在も存命で、羽吹を名前で呼ぶ人物で“友達”になり得そうな人物…?
・羽吹父&兄&継母
この線はあまりなさそうとは思っているけれど、毎回意外な人物が、という感じなので、どうなのかしら?
というか、羽吹父の今の奥さんって、羽吹さんと養子縁組していなさそうだし、この辺りは可能性として微レ存?
・五十川
羽吹さんと同年代だから、小学生同士で誘拐はあり得ないんですが、五十川父が出てきていないんですよねえ。
羽吹は記憶障害を起こすほどの出来事の中で、どうやら死体遺棄を手伝わされた雰囲気がある。
加えて、今回の作品で、“友達”が殺したと思われる被害者が夢の中に出てきている。
五十川氏は温和な人となりの割には、猟奇殺人などの資料に強い関心を持つ作家さん。
あ、でも、この人は羽吹さんを苗字呼びしているけれど。
フェイクという可能性も微レ存。
前作に出てきている気がするけれど、私が健忘発症で失念している羽吹さんの神尾より前の同僚も、詳細出てない気がするので、羽吹さんをなんと呼んでいたのか気になるので、その人の可能性もあるのかな…などなど、読了後も勝手にいろいろ妄想を楽しめる作品でもありました。
ラストに出てきた老舗ゴシップ誌の鈴倉氏が次回作で何かしらのヒントをくれる存在と勝手に予想。
彼に期待(でもキャラとしては本当に嫌いなタイプ。笑)
次作もおよそ1年後に発行になる感じでしょうか。
楽しみです。
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前作『サイメシスの迷宮 完璧な死体』で続刊アリ(3部構成と聞いた気が)と分かってから、待ち遠しく思っていたので、今回は購入からそれほど間を開けないうちに読むことができました。
(相変わらず自分の時間確保が難しい…)
前作より真犯人が物語の中盤辺りで予測できる内容だと感じました。
この辺は、犯人を推理することに楽しみを置いていない私にとっては親切な話の運び。
事件解明の作品には、読者が主人公(探偵なり刑事なり)となって犯人を突き止めることを楽しめる作風のタイプと、事件解明に向けて主人公が葛藤や試行錯誤する心の動きを楽しませるタイプがあると思っているのですが、後者のタイプの作品だと思います。
東野圭吾さんの『赤い爪』やガリレオシリーズの一部などと似たカテゴリになるのではないかと。
前作の感想で、羽吹のハイパーサイメシア──超記憶症候群という障害について、私は「超記憶症候群というよりも、忘却不能生涯というほうが正しい気がする」と感想を述べたのですが、本作ではそれを覆されました。
写真のようにビジュアルを、今現在起きている出来事のように聞こえたこと、感じた臭い、そのとき抱いた恐怖などを克明に記憶してしまう障害という架空(多分、架空)の障害であるそれは、反復すること、不意に再現されたときに意図せず混ざる現在までの経験などにより、次第にゆがめられてゆき、交じり合ったそれらの『想像』が『記憶』にすり替わってゆくという下りを読んで、自分が前作で抱いた感想を論破された気分でした。
前作では主要人物である神尾と羽吹のキャラクター性の印象付けに文字数を割いた部分を感じたのですが、既に読者の中で補完されている彼らなので、本作では事件とその捜査の経緯に集中した話になっていて、より面白く読ませてもらいました。
英田サキ名義の作品を読み慣れている人には物語の中盤で真犯人が予想できていたのではないかと思いました。
この著者さんは、無駄な人間を書かないし、無駄な描写をしない方なので。
事件の真相を楽しむお話なので、ネタバレ無しの感想がかなり難しいのですが、過去の事件で犯人と確定して服役している人物の弟のパーソナリティは、実在のあの人やこの人を彷彿とさせて、暗澹とした気持ちになりました…。
今回の事件では、神尾の心境に近い感想を抱いてしまいました。
前作では、真犯人に共感できる点があまりにもなくて、羽吹と似た感覚を持ちながら読了したのですが、今回のお話では
大人の勝手に振り回されて人間性や境遇をゆがめさせられるのはいつだって子供
という部分がつらすぎて、相変わらずと言えば相変わらずですが、この著者さんの作品は日ごろ日常に忙殺して考えることのない「人としての在りよう」を自問させられる内容になっていました。
…いや、ちゃんとキャラ萌えなやり取りもありますけど…。
「逃亡の代償」というサブタイトルが痛い作品でもありました。
神尾以外の(羽吹含め)みんなが、無自覚だったり自覚していたりと様々な形で、それぞれの問題から目を逸らして逃げている。
その代償の大きさをそれぞれが痛感して、でもその痛みを抱えて生きていこうと決意する人もいれば、自分が逃げていたとようやく気付く者もいたり、苦い読後感でありながらも、苦いだけではない何か明るい一筋も感じさせてくれるお話でした。
ただまあ、第一事件の被害者の父親は、ねえ…(自重)
そして、また出て来ました、“友達”…。
あの落書きに、そういう意味があったのか、と最後にまたぞわっとさせられる終わり方でした。
羽吹の名前を知っている人物、敢えて「羽吹」ではなく「允」に執着する人物が“友人”ということなんだろうな、と読み返してみたのですが、推理モノが苦手な私は、まだ予想ができていません。
現在も存命で、羽吹を名前で呼ぶ人物で“友達”になり得そうな人物…?
・羽吹父&兄&継母
この線はあまりなさそうとは思っているけれど、毎回意外な人物が、という感じなので、どうなのかしら?
というか、羽吹父の今の奥さんって、羽吹さんと養子縁組していなさそうだし、この辺りは可能性として微レ存?
・五十川
羽吹さんと同年代だから、小学生同士で誘拐はあり得ないんですが、五十川父が出てきていないんですよねえ。
羽吹は記憶障害を起こすほどの出来事の中で、どうやら死体遺棄を手伝わされた雰囲気がある。
加えて、今回の作品で、“友達”が殺したと思われる被害者が夢の中に出てきている。
五十川氏は温和な人となりの割には、猟奇殺人などの資料に強い関心を持つ作家さん。
あ、でも、この人は羽吹さんを苗字呼びしているけれど。
フェイクという可能性も微レ存。
前作に出てきている気がするけれど、私が健忘発症で失念している羽吹さんの神尾より前の同僚も、詳細出てない気がするので、羽吹さんをなんと呼んでいたのか気になるので、その人の可能性もあるのかな…などなど、読了後も勝手にいろいろ妄想を楽しめる作品でもありました。
ラストに出てきた老舗ゴシップ誌の鈴倉氏が次回作で何かしらのヒントをくれる存在と勝手に予想。
彼に期待(でもキャラとしては本当に嫌いなタイプ。笑)
次作もおよそ1年後に発行になる感じでしょうか。
楽しみです。
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| 2018-05-26 | Books Reviews |
【18.05.02.】『友罪』感想

友罪 薬丸岳・著 (集英社文庫)
あらすじ:
あなたは“その過去”を知っても友達でいられますか?
埼玉の小さな町工場に就職した益田は、同日に入社した鈴木と出会う。
無口で陰のある鈴木だったが、同い年の二人は次第に打ち解けてゆく。
しかし、あるとき益田は、鈴木が十四年前、連続児童殺傷で日本中を震え上がらせた「黒蛇神事件」の犯人ではないかと疑惑を抱くようになり―。
少年犯罪のその後を描いた、著者渾身の長編小説。
(「BOOK」データベースより)
ギャガ公式チャンネルより
『友罪』本予告
【つづきは感想です】
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私が読了した現在は2018年5月、著者の薬丸氏が「デビュー前から書きたかった」と語るほど衝撃を受けた『某事件』の加害少年が執筆し、被害者遺族の了承なく発行された『問題の手記』が発売された2015年6月より2年前に発行された作品になります。
『某事件』とは、この作品を読めば、多くの人が「ああ、あの…」と判るほど世間を世界規模で震撼させたあの事件のことです。
この作品の初出は、雑誌『すばる』の連載だったようなので、執筆されたのはさらにそれ以前ということになります。
『問題の手記』が発行されたことを知った後で本作を読んだ私がまず思ったのは、薬丸氏はこの作品を書いたことについて2015年6月以降、どのような気持ちでいらっしゃったのだろう、ということでした。
軽く検索を掛けてみたら(上記でぼかした事件や手記を特定してしまうのでリンク無しですみません)、薬丸氏はとあるイベントで『問題の手記』についての質問を受け、読むつもりでいたけれど、『問題の手記』の著者が開設したサイトを見て読まないと決めた、とのことでした。
ファンに対してはそれしか語らなかったようですが、その質問をぶつける勇気もさることながら、それに回答をされた薬丸氏も勇気の要ることだったかと思います。
言外にどれだけの想いを抱えていたことだろうと思うと、改めて『問題の手記』について考えさせられます。
(私は被害者遺族が発行を中止してほしいと述べているニュース記事を見ていたので、『問題の手記』を読んでいません)
この作品は、『問題の手記』の存在を知ってから読むか、知る前に読むかで、180度感想が変わる作品ではないかと思いました。
作中に出てくる鈴木は、『某事件』の経緯や加害者を連想させる経歴を持っていますが、鈴木は決して『某事件』の加害者且つ『問題の手記』の著者である『彼』がモデルではない、と私の中で結論付けました。
そうでなければ…思うところを巧く言葉に置き換えることができません…。
著者である薬丸氏、この作品を読んで『某事件』を振り返り、それを他人事のようにではなく“自分が関係者のこの立場だったら…”という目線で考えるということに気付かせてもらった読者が当時感じた思いまで、『問題の手記』によって踏みにじられたような気持になってしまい、居た堪れません。
前置きが長くなりました。
初読の感想がそんな感じだったので、あくまでも『某事件』と切り離し、
「益田と鈴木、そして彼らを取り巻く人たちの物語」
として読み直しました。
主要な登場人物列記させてもらいます。
■益田純一
ジャーナリストの道を諦めることができず、糊口を凌ぐため一時的な就職として住み込み可能な町工場に面接を受け、試用採用されて働く青年。
ジャーナリストになるべく出版社にバイト就職するも、業界の下衆な面に対する嫌悪感が拭えず逃げ出した過去がある。
■鈴木秀人
益田と同時期に町工場に雇われた、益田と同年齢の寡黙で人との交流を拒む青年。
益田の何気ない一言に救いを見いだし、益田を「親友」と慕い心を開いていくが…。
■藤沢美代子
益田や鈴木が勤務する町工場の事務員。
当時の恋人に騙されてAV出演させられた過去を隠して逃げ暮らしている。
■白石弥生
鈴木の少年院時代の担当法務教官。
当時14歳だった鈴木の母親的存在となり、鈴木の更正に尽力するが、一方で実の息子や夫との溝が深まり、息子への罪悪感に苛まれている。
■山内修司
益田や鈴木が勤務する町工場の最年長&寮の責任者。
益田や鈴木と同い年の息子が交通事故で子供を3人死なせてしまい、「人の家族を奪っておいて家族が一緒に過ごす」ことへの罪悪感から、妻と離婚し、服役中の息子に「一人で生きろ」と別れを告げた過去を持つ。
山内は息子に子を殺された家族に単独で償いをし続けている。
※実写版ではタクシードライバーの設定で佐藤浩市さんが演じるようですね。
■桜井学
益田の中学時代の同級生。益田の人生に多大な影響を及ぼしたトラウマ。
中2のとき、いじめを苦に自死
私がこの作品の中で挙げるべきと感じた主要人物とキーパーソンは以上です。
桜井くん以外の5人は、私の目に「被害者」でもあり「加害者」でもある存在に映りました。
益田や鈴木の同僚たちや社長夫妻、益田の先輩や元恋人などは、典型的な「部外者目線」の感情や思考を言動の端々に見せる中、桜井くんを除いたこの5人だけは、それぞれの抱えている過去や現在について、とても苦悩し、葛藤し、罪の意識を抱え、同時に別件を第三者として見て恐怖し、恐怖する自分を唾棄し…人間だ、と思ってしまうくらい、部外者の人たちの悪意なき言葉の暴力や無責任さがひどいと感じさせられる内容でした。
そして自分を振り返ってしまいました。
自分もこの「部外者」と同じ言動を取っていやしないだろうか、と不安にさせる物語でもありました。
完全なる善人も、完全なる悪人も登場しません。
(あ、でも美代子の元恋人は死んでくださいと思いました)
ある人にとって加害者であり、ある人にとっては残酷な傍観者=共犯者であり、ある人にとっては被害者であり…桜井くん以外は、加害者の一面を持つ人たちだと感じました。
だけど、善悪だけで読者=部外者が断罪することはできない「人間」でもあったと感じます。
鈴木の見せる益田への好意(変な意味ではなく)は本物だと思うし、それは失った10代後半を取り戻そうとするかのような幼稚だけれど純粋で真摯な友愛だったと思うし、鈴木の人となりが彼の教官だった弥生から読者に知らされるに従い、彼は一部分が10代のまま、自分なりにどうすることが償うことになるのかを苦しみながら模索しているのだろう、人間であろうと足掻いているのだろうと感じられました。
そのきっかけになった益田の優柔不断は、長所として表現すれば「優しさ」とも言い換えられると思います。
益田の言動や葛藤は、彼の視点を通じて「逃げ」というネガティブで表現されるのですが、人としてとても共感する部分もある感情だと思います。
でも、これが益田の犯した加害行為であり、そのために桜井くんは死んだ(と、少なくても益田はそう思っているし、それを初めて打ち明けられた桜井くんのお母さんは、「どうしていまごろ…」と衝撃を受けています)。
レビューを見たら、
「なぜ美代子があそこまで被害意識を持っているのか理解できない」
「自分が招いた事態だろう」
という意見が散見されて愕然としました。
1対複数で見知らぬ場所で軟禁される恐怖を自身に置き換えたら、恋人を信じることでしか自分の精神を保てない状況を想像したら、と思うと、こういうのが無自覚な言葉の暴力なのだろうなあ、とレビューからも感じてしまいました。
作中にも、こういった第三者の心無い言葉が散見されます。
かなりつらくて重いお話です。
薬丸氏は2015年6月以降、どう感じていらっしゃるのだろうかというのが気になっている理由の1つとして、
「鈴木という人物を知れば知るほど、あのような事件を起こせる人物ではない」
という違和感を覚えたから、というのもあります。
もし2015年6月以前にこの作品を読んでいたら、私は『某事件』の彼の将来や人間に対するポジティブな期待も抱けたでしょう。
けれど、現実を先に突きつけられてからこの作品を読んでしまったために違和感を覚えてしまったので、それ以前にこの作品を書かれた薬丸氏やこの作品を読んだ人たちには、『問題の手記』の発売や、遺族に了承を得ていなかったという事実が大きな打撃だっただろうと勝手に思っています。
益田の
「少しでも関わり合った人が死んだら、自分は悲しい」
「君が死んだら悲しい」
という言葉だけで、いきなり利他欲が芽生えるはずがないと『某事件』の彼が証明してしまいました。
どうしても実際の事件が頭の片隅にちらついてしまい、鈴木がそこまでの事件を起こす人間とは思えませんでした。
鈴木の家族がほとんど登場しないため、母親の愛情を弟に奪われたことで心の拠り所を求めて『黒邪神』を崇め妄信するようになった説明はあるのですが、そこに至るまでの家族間のやり取りが見えてこないためか、鈴木が悪夢の中でうなされながら弟に謝る気持ちの動きが分からなかったからかもしれません。
自分の読解力不足も多分にあると思います。
この作品で、鈴木が(夢の中で)弟に謝罪するシーンはあるのですが、被害者への謝罪の言葉はありません。
町工場で過ごした3ヶ月だけが「生きていた時間」だと鈴木は言い残して去ります。
そして、結末は…読者に委ねられているような気がしています。
鈴木が益田の手記をどこかで読むか、読まないか。
それを読んだとしたら、鈴木はどういう行動に出るか、出ないか。
美代子が益田の行為に唾棄したそのあと、益田の手記を読んだか読まないか。
もし読んだとしたら、彼女は鈴木や益田に対し、どう行動するだろうか。
益田は、手記を発表し、故郷に帰って桜井くんと鈴木への贖罪の日々を送るのですが、彼は鈴木ともう一度会うことができるだろうか…など、読了後もいろんなことを考えさせられる終わり方でした。
現実の『あれ』があまりにも…だったからこそ、そこにベターなエンドを求めてしまう自分がいます。
1つだけ救われたのは、弥生とその息子の智也が和解の兆しを見せたことでした。
映画作品は、雰囲気的に内容を変えているようです。
夏帆さん演じる美代子も、いろいろ実写化情報を探ってみると同じ会社の事務員ではなくオペレーターみたいです。
他者との関わりから過去を知られることに怯えている鈴木と美代子が、映画ではどういう知り合い方をするのだろう、と気になります。
美代子のおかげで、鈴木は初めてタナトスから解放されるかもしれないと思わせるキーパーソンなのですが、どうシナリオが変わるのかな、と。
佐藤浩市さん演じる山内さんも、職場の上長じゃない設定っぽいですし。
山内さんも益田の考えが変わるきっかけになったキーパーソンなのですが、どう脚本が変わっているのか観たいと思うので、劇場に足を運ぼうと思っています。
それと、『問題の手記』が発売されたあと(2015年9月)、薬丸氏は『Aではない君と』という作品を出されているようなので、こちらも読んでみたいと思います。
吉川文学新人賞受賞作だったんですね…。
そして、『問題の手記』発売から3ヶ月後…。
作家・薬丸岳という人の執念と信念を感じました。
また映画を観たら映画感想のカテゴリで作品を紹介できればと思います。
(取り敢えず明日は『君の名前で僕を呼んで』を観に行ってきます)
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私が読了した現在は2018年5月、著者の薬丸氏が「デビュー前から書きたかった」と語るほど衝撃を受けた『某事件』の加害少年が執筆し、被害者遺族の了承なく発行された『問題の手記』が発売された2015年6月より2年前に発行された作品になります。
『某事件』とは、この作品を読めば、多くの人が「ああ、あの…」と判るほど世間を世界規模で震撼させたあの事件のことです。
この作品の初出は、雑誌『すばる』の連載だったようなので、執筆されたのはさらにそれ以前ということになります。
『問題の手記』が発行されたことを知った後で本作を読んだ私がまず思ったのは、薬丸氏はこの作品を書いたことについて2015年6月以降、どのような気持ちでいらっしゃったのだろう、ということでした。
軽く検索を掛けてみたら(上記でぼかした事件や手記を特定してしまうのでリンク無しですみません)、薬丸氏はとあるイベントで『問題の手記』についての質問を受け、読むつもりでいたけれど、『問題の手記』の著者が開設したサイトを見て読まないと決めた、とのことでした。
ファンに対してはそれしか語らなかったようですが、その質問をぶつける勇気もさることながら、それに回答をされた薬丸氏も勇気の要ることだったかと思います。
言外にどれだけの想いを抱えていたことだろうと思うと、改めて『問題の手記』について考えさせられます。
(私は被害者遺族が発行を中止してほしいと述べているニュース記事を見ていたので、『問題の手記』を読んでいません)
この作品は、『問題の手記』の存在を知ってから読むか、知る前に読むかで、180度感想が変わる作品ではないかと思いました。
作中に出てくる鈴木は、『某事件』の経緯や加害者を連想させる経歴を持っていますが、鈴木は決して『某事件』の加害者且つ『問題の手記』の著者である『彼』がモデルではない、と私の中で結論付けました。
そうでなければ…思うところを巧く言葉に置き換えることができません…。
著者である薬丸氏、この作品を読んで『某事件』を振り返り、それを他人事のようにではなく“自分が関係者のこの立場だったら…”という目線で考えるということに気付かせてもらった読者が当時感じた思いまで、『問題の手記』によって踏みにじられたような気持になってしまい、居た堪れません。
前置きが長くなりました。
初読の感想がそんな感じだったので、あくまでも『某事件』と切り離し、
「益田と鈴木、そして彼らを取り巻く人たちの物語」
として読み直しました。
主要な登場人物列記させてもらいます。
■益田純一
ジャーナリストの道を諦めることができず、糊口を凌ぐため一時的な就職として住み込み可能な町工場に面接を受け、試用採用されて働く青年。
ジャーナリストになるべく出版社にバイト就職するも、業界の下衆な面に対する嫌悪感が拭えず逃げ出した過去がある。
■鈴木秀人
益田と同時期に町工場に雇われた、益田と同年齢の寡黙で人との交流を拒む青年。
益田の何気ない一言に救いを見いだし、益田を「親友」と慕い心を開いていくが…。
■藤沢美代子
益田や鈴木が勤務する町工場の事務員。
当時の恋人に騙されてAV出演させられた過去を隠して逃げ暮らしている。
■白石弥生
鈴木の少年院時代の担当法務教官。
当時14歳だった鈴木の母親的存在となり、鈴木の更正に尽力するが、一方で実の息子や夫との溝が深まり、息子への罪悪感に苛まれている。
■山内修司
益田や鈴木が勤務する町工場の最年長&寮の責任者。
益田や鈴木と同い年の息子が交通事故で子供を3人死なせてしまい、「人の家族を奪っておいて家族が一緒に過ごす」ことへの罪悪感から、妻と離婚し、服役中の息子に「一人で生きろ」と別れを告げた過去を持つ。
山内は息子に子を殺された家族に単独で償いをし続けている。
※実写版ではタクシードライバーの設定で佐藤浩市さんが演じるようですね。
■桜井学
益田の中学時代の同級生。益田の人生に多大な影響を及ぼしたトラウマ。
中2のとき、いじめを苦に自死
私がこの作品の中で挙げるべきと感じた主要人物とキーパーソンは以上です。
桜井くん以外の5人は、私の目に「被害者」でもあり「加害者」でもある存在に映りました。
益田や鈴木の同僚たちや社長夫妻、益田の先輩や元恋人などは、典型的な「部外者目線」の感情や思考を言動の端々に見せる中、桜井くんを除いたこの5人だけは、それぞれの抱えている過去や現在について、とても苦悩し、葛藤し、罪の意識を抱え、同時に別件を第三者として見て恐怖し、恐怖する自分を唾棄し…人間だ、と思ってしまうくらい、部外者の人たちの悪意なき言葉の暴力や無責任さがひどいと感じさせられる内容でした。
そして自分を振り返ってしまいました。
自分もこの「部外者」と同じ言動を取っていやしないだろうか、と不安にさせる物語でもありました。
完全なる善人も、完全なる悪人も登場しません。
(あ、でも美代子の元恋人は死んでくださいと思いました)
ある人にとって加害者であり、ある人にとっては残酷な傍観者=共犯者であり、ある人にとっては被害者であり…桜井くん以外は、加害者の一面を持つ人たちだと感じました。
だけど、善悪だけで読者=部外者が断罪することはできない「人間」でもあったと感じます。
鈴木の見せる益田への好意(変な意味ではなく)は本物だと思うし、それは失った10代後半を取り戻そうとするかのような幼稚だけれど純粋で真摯な友愛だったと思うし、鈴木の人となりが彼の教官だった弥生から読者に知らされるに従い、彼は一部分が10代のまま、自分なりにどうすることが償うことになるのかを苦しみながら模索しているのだろう、人間であろうと足掻いているのだろうと感じられました。
そのきっかけになった益田の優柔不断は、長所として表現すれば「優しさ」とも言い換えられると思います。
益田の言動や葛藤は、彼の視点を通じて「逃げ」というネガティブで表現されるのですが、人としてとても共感する部分もある感情だと思います。
でも、これが益田の犯した加害行為であり、そのために桜井くんは死んだ(と、少なくても益田はそう思っているし、それを初めて打ち明けられた桜井くんのお母さんは、「どうしていまごろ…」と衝撃を受けています)。
レビューを見たら、
「なぜ美代子があそこまで被害意識を持っているのか理解できない」
「自分が招いた事態だろう」
という意見が散見されて愕然としました。
1対複数で見知らぬ場所で軟禁される恐怖を自身に置き換えたら、恋人を信じることでしか自分の精神を保てない状況を想像したら、と思うと、こういうのが無自覚な言葉の暴力なのだろうなあ、とレビューからも感じてしまいました。
作中にも、こういった第三者の心無い言葉が散見されます。
かなりつらくて重いお話です。
薬丸氏は2015年6月以降、どう感じていらっしゃるのだろうかというのが気になっている理由の1つとして、
「鈴木という人物を知れば知るほど、あのような事件を起こせる人物ではない」
という違和感を覚えたから、というのもあります。
もし2015年6月以前にこの作品を読んでいたら、私は『某事件』の彼の将来や人間に対するポジティブな期待も抱けたでしょう。
けれど、現実を先に突きつけられてからこの作品を読んでしまったために違和感を覚えてしまったので、それ以前にこの作品を書かれた薬丸氏やこの作品を読んだ人たちには、『問題の手記』の発売や、遺族に了承を得ていなかったという事実が大きな打撃だっただろうと勝手に思っています。
益田の
「少しでも関わり合った人が死んだら、自分は悲しい」
「君が死んだら悲しい」
という言葉だけで、いきなり利他欲が芽生えるはずがないと『某事件』の彼が証明してしまいました。
どうしても実際の事件が頭の片隅にちらついてしまい、鈴木がそこまでの事件を起こす人間とは思えませんでした。
鈴木の家族がほとんど登場しないため、母親の愛情を弟に奪われたことで心の拠り所を求めて『黒邪神』を崇め妄信するようになった説明はあるのですが、そこに至るまでの家族間のやり取りが見えてこないためか、鈴木が悪夢の中でうなされながら弟に謝る気持ちの動きが分からなかったからかもしれません。
自分の読解力不足も多分にあると思います。
この作品で、鈴木が(夢の中で)弟に謝罪するシーンはあるのですが、被害者への謝罪の言葉はありません。
町工場で過ごした3ヶ月だけが「生きていた時間」だと鈴木は言い残して去ります。
そして、結末は…読者に委ねられているような気がしています。
鈴木が益田の手記をどこかで読むか、読まないか。
それを読んだとしたら、鈴木はどういう行動に出るか、出ないか。
美代子が益田の行為に唾棄したそのあと、益田の手記を読んだか読まないか。
もし読んだとしたら、彼女は鈴木や益田に対し、どう行動するだろうか。
益田は、手記を発表し、故郷に帰って桜井くんと鈴木への贖罪の日々を送るのですが、彼は鈴木ともう一度会うことができるだろうか…など、読了後もいろんなことを考えさせられる終わり方でした。
現実の『あれ』があまりにも…だったからこそ、そこにベターなエンドを求めてしまう自分がいます。
1つだけ救われたのは、弥生とその息子の智也が和解の兆しを見せたことでした。
映画作品は、雰囲気的に内容を変えているようです。
夏帆さん演じる美代子も、いろいろ実写化情報を探ってみると同じ会社の事務員ではなくオペレーターみたいです。
他者との関わりから過去を知られることに怯えている鈴木と美代子が、映画ではどういう知り合い方をするのだろう、と気になります。
美代子のおかげで、鈴木は初めてタナトスから解放されるかもしれないと思わせるキーパーソンなのですが、どうシナリオが変わるのかな、と。
佐藤浩市さん演じる山内さんも、職場の上長じゃない設定っぽいですし。
山内さんも益田の考えが変わるきっかけになったキーパーソンなのですが、どう脚本が変わっているのか観たいと思うので、劇場に足を運ぼうと思っています。
それと、『問題の手記』が発売されたあと(2015年9月)、薬丸氏は『Aではない君と』という作品を出されているようなので、こちらも読んでみたいと思います。
吉川文学新人賞受賞作だったんですね…。
そして、『問題の手記』発売から3ヶ月後…。
作家・薬丸岳という人の執念と信念を感じました。
また映画を観たら映画感想のカテゴリで作品を紹介できればと思います。
(取り敢えず明日は『君の名前で僕を呼んで』を観に行ってきます)
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| 2018-05-02 | Books Reviews |
【18.03.05.】『弟の夫』感想
弟の夫(1) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
弟の夫(2) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
弟の夫(3) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
弟の夫(4) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
あらすじ:
(1)
弥一と夏菜、父娘二人暮らしの家に、マイクと名乗る男がカナダからやって来た。
マイクは、弥一の双子の弟の結婚相手だった。
「パパに双子の弟がいたの?」
「男同士で結婚って出来るの?」
幼い夏菜は突如現れたカナダ人の“おじさん”に大興奮。
弥一と、“弟の夫”マイクの物語が始まる――。
(2)
弥一と娘の夏菜、そして弥一の双子の弟の夫、カナダ人のマイクの物語。
マイクとの暮らしのなかで、弥一は同性婚をした亡き弟・涼二への想いを深めてゆく。
あったかくて、時には切ないファミリーストーリー。
(3)
弥一と娘の夏菜、そして弥一の双子の弟の夫・カナダ人のマイク。
三人で過ごす日々のなかで、亡き弟・涼二、そしてマイクへの想いが変化していく。
そんな折、高校時代の同級生が訪れ…。
「差別とは?」
「家族とは?」
「幸せとは?」
あったかくて、時に切ない家族の物語。
(4)
パパ・弥一の双子の弟の夫・マイクが家に来てから、夏菜の毎日は驚きや発見でいっぱい。
でも、そんな楽しい時間にも終わりが近づいていた。
「絶対また会えるよね?」
そう問いかける夏菜に、マイクは日本へ来た理由を明かし…。
(amazon内容紹介より)
【つづきはネタバレ感想です】
弟の夫(2) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
弟の夫(3) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
弟の夫(4) 田亀源五郎・著 (アクションコミックス)
あらすじ:
(1)
弥一と夏菜、父娘二人暮らしの家に、マイクと名乗る男がカナダからやって来た。
マイクは、弥一の双子の弟の結婚相手だった。
「パパに双子の弟がいたの?」
「男同士で結婚って出来るの?」
幼い夏菜は突如現れたカナダ人の“おじさん”に大興奮。
弥一と、“弟の夫”マイクの物語が始まる――。
(2)
弥一と娘の夏菜、そして弥一の双子の弟の夫、カナダ人のマイクの物語。
マイクとの暮らしのなかで、弥一は同性婚をした亡き弟・涼二への想いを深めてゆく。
あったかくて、時には切ないファミリーストーリー。
(3)
弥一と娘の夏菜、そして弥一の双子の弟の夫・カナダ人のマイク。
三人で過ごす日々のなかで、亡き弟・涼二、そしてマイクへの想いが変化していく。
そんな折、高校時代の同級生が訪れ…。
「差別とは?」
「家族とは?」
「幸せとは?」
あったかくて、時に切ない家族の物語。
(4)
パパ・弥一の双子の弟の夫・マイクが家に来てから、夏菜の毎日は驚きや発見でいっぱい。
でも、そんな楽しい時間にも終わりが近づいていた。
「絶対また会えるよね?」
そう問いかける夏菜に、マイクは日本へ来た理由を明かし…。
(amazon内容紹介より)
【つづきはネタバレ感想です】
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3/4からNHK BSプレミアムでドラマが開始と聞いて楽しみにしていたら、我が家は契約しておりませんでした、というオチ…。
(その後、今のテレビを購入してからBSに初めてアクセスしたため一時的に映らなかっただけらしい、ということが判明…今は普通に映ってます…)
ならばと原作コミック購入を即決。
敢えて各巻のあらすじを転記したのは、少しでも多くの人に関心を持ってもらえたらと思ったので。
LGBTを思い切り前面に出した感動ポルノではありません。
あらすじにあるとおり、この物語は「ファミリー・ストーリー」で、家族愛や幸せとは、ということについて、大げさな背負い込む感じでもなく、ただふと自分を振り返ってしまう物語、と言えばいいのでしょうか。
主人公の弥一は、実はバツイチだったりします。
彼の奥さんだった夏樹は、人間としてとても自然体の人で、私の中で憧れの対象になりました。
かと言って、弥一が人間として魅力がないのではなく、彼は多くの読者から共感を得る存在ではないかと思います。
そして、弥一の弟、涼二の夫であるマイクがとてもステキな人で、彼の人となりに弥一は救われたと思っていいだろうと、読後感がとてもよい作品でした。
マイクと弥一・夏菜親子が共に過ごした時間は、たったの3週間。
夏菜の先入観や偏見ゼロの問い掛けが、そして彼女の友達であるユキの想いが、弥一に対してであると同時に、読者にも難しい質問となって突き刺さってきます。
その問い掛けはどんな思いからくるのかに考えを巡らせれば、自ずと問われた読者も、無自覚な差別や偏見、その原因となった無関心を自覚してしまうのではないでしょうか。
巧く言葉に置き換えることができないのですが、「肯定すること」と「違いを受け入れること」は違う、ということではないか、と考えさせられる作品リストにこの作品も私の中で追加されました。
この作品では、LGBTに対する「違うことへの偏見」にとどまらず、母子家庭や父子家庭に対する先入観や偏見についても意識を向けさせたり、家族の在り方についての「個々の違い」についてをどう捉えるかという問題提起に唸らされたり、各々が「今の自分」を受け入れられるか拒絶するのかで悩む心理について、我が身を振り返らされたり…たった4冊で完結されているにも関わらず、濃くて、そのくせ押し付け感も重さもなく、ある家族の風景として温かな雰囲気のまま綴られていきます。
だからこそ、自分が考えさせられるというか、答えを「こう」と提示してくる押し付けがないので、ただありのままを描いている中で自分はどうであろうかと自問させてくれる、という見方もできる作品です。
そこに至るまでの間に葛藤や苦悩があったに違いないだろうに、そういう部分は物足りないくらいにさらりと語られるので、それが却って読む人に考えさせるお話でした。
ちなみに、今はLGBTに、自分の性自認や性的指向が定まっていない「Questioning」を付加した「LGBTQ」という表現をされつつある、という情報もあります。
この辺りの話について「何を言っているか分からない」と感じられる方には、ぜひこの作品を読んでいただけるといいな、と思います。
マイクに共感することが多いだろうと予想して読み始めたのですが、弥一に共鳴する部分が多かったので、そこが我ながら意外でした。
マイノリティ=少数者という意味で、自分はマイクのほうに共有できる感覚が多いだろうと思っていたのです。
物心ついたときから「変わっている」「考え方がおかしい」などなどの言葉を受けて育ったので、善悪の評価が混じらない「マイノリティ」という言葉が救いだった時期があります。
ある意味でとても分かりやすい上に明らかに理不尽な差別である性的マイノリティの立ち位置にあるマイクに同調すると思いきや、最もシンクロしたのは、弥一の
「どう接していいのか分からない」
という序盤の彼の戸惑いでした。
理解できていないことから、無自覚の偏見があって、マイクと涼二の馴れ初めすら聞けないでいた弥一ですが、偏見を自覚しても聞けない葛藤がありました。
それは、どこまで聞いていいのか、何気ない言葉でマイクを傷つけやしないか、という気持ちからであったり、双子の兄で涼二と瓜二つの自分を見て辛くないのだろうかと悩んだり、理解できていないことを自覚したからこその悩みと言えばいいのでしょうか。
その部分に一番同調してしまい、そして無知な自分に自己嫌悪してしまう気持ちも分かる気がして、その答えが作品の中にあるだろうかという訴求が一気に最後まで読ませたようなものでした。
マイク自身は、いろんなものを乗り越えた形で弥一たちの前に現れ、夏菜の友達のお兄さん(クローズド・ゲイです)の相談に乗ったり(答えません。ただ聞いて受け止めるのみです)、弥一の葛藤もどこか織り込み済みで、それも受け入れていて、だけどこれまでの人生の中で葛藤がなかったわけがないとも感じさせる一つ一つの言動があり、そして、最後の最後で彼が日本へ1人で赴いた目的を弥一に語る――という流れで迎えたマイクから弥一への告白は、どこまでも「夫と夫の兄に対する愛」に溢れていて、弥一の後悔は一生どうにもならないけれど、マイクのおかげでこれ以上の後悔を増やさなくて済むのではないか、という希望に溢れるラストでした。
元奥さんの夏樹さんという稀有な存在も、この作品ではキーパーソンになっていると思います。
彼女はもちろんLGBTではありませんし、ことさらにストレート・アライを主張するようなポリシーや信念を持っているわけでもない、ごく普通の人です。
そのごく普通の自然体で、さらっと弥一に笑って言うのです。
「弥一くんと私はもう夫婦じゃないけれど、夏菜を通じて繋がってる」
「弥一くんとマイクは他人だけれど、涼二くんを通じて繋がっている」
「なら、家族でいいんじゃない?」
まるで「何つまんないことに拘っているのよ」と呆れ混じりに笑っているかのような笑顔で言うんですよね…涙腺ゆるみました…。
人に決めてもらうのではなく、自分が定めればいいのだ、ということに気付かせてくれるキーパーソンの1人で、マイクからのそれらしい言葉はないのですが、彼もまたありのままの自分や他者を受け入れる大きな器の人で、そんなマイクの人となりと、彼と過ごしている間に撮ってもらっていた涼二の幸せそうな写真たちと、2人の婚礼衣装=どちらも夫で、どちらもが互いの配偶者であることの象徴と、そこにあるのが幸せに満ちた笑顔だったことが、弥一を救ったのだと思います。
内容を読み終えると、ラストシーンで弥一の心が見たこの2人の笑顔が、どれだけ弥一を救っているのかを感じて、読んでいる自分まで泣きそうになりました…。
まだまだ、自分の無知を思い知る作品でもありました。
存外、自覚がないだけで、自分も多かれ少なかれ差別や偏見によって傷ついた経験があるのに、別の差別や偏見で人を見ているのかもしれない、ということを気付かせてくれる作品です。
気遣い過ぎて何も聞けなくなる、気安いジョークも言えない気持ちが湧く、というのも、ある意味で偏見や差別、ですよね。
そんな気付きを与えてくれる作品でもありました。
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3/4からNHK BSプレミアムでドラマが開始と聞いて楽しみにしていたら、我が家は契約しておりませんでした、というオチ…。
(その後、今のテレビを購入してからBSに初めてアクセスしたため一時的に映らなかっただけらしい、ということが判明…今は普通に映ってます…)
ならばと原作コミック購入を即決。
敢えて各巻のあらすじを転記したのは、少しでも多くの人に関心を持ってもらえたらと思ったので。
LGBTを思い切り前面に出した感動ポルノではありません。
あらすじにあるとおり、この物語は「ファミリー・ストーリー」で、家族愛や幸せとは、ということについて、大げさな背負い込む感じでもなく、ただふと自分を振り返ってしまう物語、と言えばいいのでしょうか。
主人公の弥一は、実はバツイチだったりします。
彼の奥さんだった夏樹は、人間としてとても自然体の人で、私の中で憧れの対象になりました。
かと言って、弥一が人間として魅力がないのではなく、彼は多くの読者から共感を得る存在ではないかと思います。
そして、弥一の弟、涼二の夫であるマイクがとてもステキな人で、彼の人となりに弥一は救われたと思っていいだろうと、読後感がとてもよい作品でした。
マイクと弥一・夏菜親子が共に過ごした時間は、たったの3週間。
夏菜の先入観や偏見ゼロの問い掛けが、そして彼女の友達であるユキの想いが、弥一に対してであると同時に、読者にも難しい質問となって突き刺さってきます。
その問い掛けはどんな思いからくるのかに考えを巡らせれば、自ずと問われた読者も、無自覚な差別や偏見、その原因となった無関心を自覚してしまうのではないでしょうか。
巧く言葉に置き換えることができないのですが、「肯定すること」と「違いを受け入れること」は違う、ということではないか、と考えさせられる作品リストにこの作品も私の中で追加されました。
この作品では、LGBTに対する「違うことへの偏見」にとどまらず、母子家庭や父子家庭に対する先入観や偏見についても意識を向けさせたり、家族の在り方についての「個々の違い」についてをどう捉えるかという問題提起に唸らされたり、各々が「今の自分」を受け入れられるか拒絶するのかで悩む心理について、我が身を振り返らされたり…たった4冊で完結されているにも関わらず、濃くて、そのくせ押し付け感も重さもなく、ある家族の風景として温かな雰囲気のまま綴られていきます。
だからこそ、自分が考えさせられるというか、答えを「こう」と提示してくる押し付けがないので、ただありのままを描いている中で自分はどうであろうかと自問させてくれる、という見方もできる作品です。
そこに至るまでの間に葛藤や苦悩があったに違いないだろうに、そういう部分は物足りないくらいにさらりと語られるので、それが却って読む人に考えさせるお話でした。
ちなみに、今はLGBTに、自分の性自認や性的指向が定まっていない「Questioning」を付加した「LGBTQ」という表現をされつつある、という情報もあります。
この辺りの話について「何を言っているか分からない」と感じられる方には、ぜひこの作品を読んでいただけるといいな、と思います。
マイクに共感することが多いだろうと予想して読み始めたのですが、弥一に共鳴する部分が多かったので、そこが我ながら意外でした。
マイノリティ=少数者という意味で、自分はマイクのほうに共有できる感覚が多いだろうと思っていたのです。
物心ついたときから「変わっている」「考え方がおかしい」などなどの言葉を受けて育ったので、善悪の評価が混じらない「マイノリティ」という言葉が救いだった時期があります。
ある意味でとても分かりやすい上に明らかに理不尽な差別である性的マイノリティの立ち位置にあるマイクに同調すると思いきや、最もシンクロしたのは、弥一の
「どう接していいのか分からない」
という序盤の彼の戸惑いでした。
理解できていないことから、無自覚の偏見があって、マイクと涼二の馴れ初めすら聞けないでいた弥一ですが、偏見を自覚しても聞けない葛藤がありました。
それは、どこまで聞いていいのか、何気ない言葉でマイクを傷つけやしないか、という気持ちからであったり、双子の兄で涼二と瓜二つの自分を見て辛くないのだろうかと悩んだり、理解できていないことを自覚したからこその悩みと言えばいいのでしょうか。
その部分に一番同調してしまい、そして無知な自分に自己嫌悪してしまう気持ちも分かる気がして、その答えが作品の中にあるだろうかという訴求が一気に最後まで読ませたようなものでした。
マイク自身は、いろんなものを乗り越えた形で弥一たちの前に現れ、夏菜の友達のお兄さん(クローズド・ゲイです)の相談に乗ったり(答えません。ただ聞いて受け止めるのみです)、弥一の葛藤もどこか織り込み済みで、それも受け入れていて、だけどこれまでの人生の中で葛藤がなかったわけがないとも感じさせる一つ一つの言動があり、そして、最後の最後で彼が日本へ1人で赴いた目的を弥一に語る――という流れで迎えたマイクから弥一への告白は、どこまでも「夫と夫の兄に対する愛」に溢れていて、弥一の後悔は一生どうにもならないけれど、マイクのおかげでこれ以上の後悔を増やさなくて済むのではないか、という希望に溢れるラストでした。
元奥さんの夏樹さんという稀有な存在も、この作品ではキーパーソンになっていると思います。
彼女はもちろんLGBTではありませんし、ことさらにストレート・アライを主張するようなポリシーや信念を持っているわけでもない、ごく普通の人です。
そのごく普通の自然体で、さらっと弥一に笑って言うのです。
「弥一くんと私はもう夫婦じゃないけれど、夏菜を通じて繋がってる」
「弥一くんとマイクは他人だけれど、涼二くんを通じて繋がっている」
「なら、家族でいいんじゃない?」
まるで「何つまんないことに拘っているのよ」と呆れ混じりに笑っているかのような笑顔で言うんですよね…涙腺ゆるみました…。
人に決めてもらうのではなく、自分が定めればいいのだ、ということに気付かせてくれるキーパーソンの1人で、マイクからのそれらしい言葉はないのですが、彼もまたありのままの自分や他者を受け入れる大きな器の人で、そんなマイクの人となりと、彼と過ごしている間に撮ってもらっていた涼二の幸せそうな写真たちと、2人の婚礼衣装=どちらも夫で、どちらもが互いの配偶者であることの象徴と、そこにあるのが幸せに満ちた笑顔だったことが、弥一を救ったのだと思います。
内容を読み終えると、ラストシーンで弥一の心が見たこの2人の笑顔が、どれだけ弥一を救っているのかを感じて、読んでいる自分まで泣きそうになりました…。
まだまだ、自分の無知を思い知る作品でもありました。
存外、自覚がないだけで、自分も多かれ少なかれ差別や偏見によって傷ついた経験があるのに、別の差別や偏見で人を見ているのかもしれない、ということを気付かせてくれる作品です。
気遣い過ぎて何も聞けなくなる、気安いジョークも言えない気持ちが湧く、というのも、ある意味で偏見や差別、ですよね。
そんな気付きを与えてくれる作品でもありました。
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| 2018-03-05 | Books Reviews |
【18.03.01.】『そして父になる』鑑賞

そして父になる DVDスタンダード・エディション(アミューズソフトエンタテインメント)
そして父になる Blu-rayスタンダード・エディション(アミューズソフトエンタテインメント)
あらすじ:
学歴、仕事、家庭。自分の能力で全てを手にいれ、自分は人生の勝ち組だと信じて疑っていなかった野々宮良多。
ある日病院からの連絡で、6年間育てた息子は病院内で取り違えられた他人の夫婦の子供だったことが判明する。
血か、愛した時間か―突き付けられる究極の選択を迫られる二つの家族。
今この時代に、愛、絆、家族とは何かを問う、感動のドラマ。
(amazon商品の説明より)
【つづきはネタバレ感想です】
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劇場公開前にこの予告編を見て「絶対観る!」と決めただけで観れずじまいにいた作品でした。
この記事を書くに当たって、久し振りに予告動画を観たのですが、印象がかなり変わりました…と今気が付きました。
予告で語られる登場人物の言葉一つ一つが、鑑賞後だと物語の流れを思い出させて涙腺が緩みます。
福山くん演じる野々宮良多が、リリー・フランキーさん演じる斎木さんが、それぞれの奥さんたちが、どんな思いで絞り出すようにそれを発したかが分かってしまうと、勝手に涙腺が緩みます…。
野々宮は、あらすじの紹介にあるとおり、一流企業に勤めて大きなプロジェクトを任されるほど優秀な人間で、職場恋愛で貞淑を絵に描いたような女性を妻にし、息子の慶多にはお受験をさせて競争社会の中で勝ち組になることこそが幸せに生きていく道だと信じて疑っていなかった父親です。
そんな野々宮は、父の離婚と再婚により、継母(風吹ジュンさんの名演にも泣かされました!)を未だに名前で呼ぶような人です。
とても保守的で、競争心に乏しい我が子を頼りなく思っています。
でも、それはおっとりとした妻譲りの気性だと思っている節があり、慶多を生んだ病院から連絡が来るまで取り違えなんて疑ったこともありません。
知らせを受けた野々宮が妻に(というより思わず呟いた独り言ですが)、
「そういうことだったのか」
と発言します。
これを聞いたとき、私の中の母親としての部分が「は?何が?」と、この辺りから野々宮に対する不快感が増していきました。
一方、子供を取り換えられてしまったもう一つの家族、斎木家のご主人は、個人経営で電気屋さんを営んでいる人で、女房に尻を敷かれた情けない父親として描かれた冒頭でした。
取り違えの報告を受けて顔合わせをしたときに初登場するのですが、遅刻した理由を、出掛けにあれやこれやしていた奥さんのせいにしたり、金に穢い物言いをしたり、第一印象があまりよくない描かれ方でした。
中盤で何度か、子供同士をそれぞれの親に馴染ませるために会うのですが、斎木さんはその都度、病院の名前で領収証を切るんですね。
それを見た野々宮が眉を顰める。
その辺りには野々宮に共感を覚えたのですが、物語が進むにつれて、人間として完全ではないそういった部分が些末に感じられるほど、根本的に野々宮のほうが父親として欠如している部分が多過ぎると感じさせる後半です。
強烈な印象になったシーンを挙げるときりがないのですが、その中の一つで、斎木が野々宮に
「父親と遊んだことがないんですか?」
「子供と遊んであげましょうよ」
とアドバイスをするシーン。
野々宮は「なんで電気屋なんか(負け組のヤツなんかに、という気持ちだったのだと思います)そんなことを言われなくちゃならないんだ」と妻に愚痴るのですが、野々宮は斎木のそれに対して、
「自分でないとできない仕事なんですよ」
と言い返します。
そこで斎木が腹立たしげに
「父親だって代わりがきかないでしょう!」
とやや激昂して言うのです。
いつも低姿勢でへらへらとしていた斎木が、初めて素を見せた瞬間でした。
このシーンで私は「父親としての在りよう」で一気に斎木のほうへ好感が偏りました。
母親同士は、直に子供たちを育ててきたので、父親以上に(と比べるのもおかしいのでしょうけれど)葛藤があると思います。
「どうして気付けなかったのか。母親なのに。自分が生んだ子なのに」
「血を分けた子を可愛く思ってしまう。それは6年間息子でいてくれた子への裏切りのように感じてしまう」
それぞれの奥さんは、母親としてまったくキャラクターが違い、ある面では正反対ですらあるのですが…愛情の度合いは比較のしようがないほど、深い。
そしてそれをお互いに感じているからこそ、仲良くなれて、相談もし合えて、悩みや葛藤や苦しみを共有していたのだろうと感じられる母親同士のやり取りでした。
もうこの辺りは涙が止まらなくてどうしようかと思うくらい痛かったです。
そして、取り違えられたそれぞれの家の子供たち。
おおらかでのびのびと育ち、弟妹もいた斎木琉晴は、なぜ仲良くなった慶多の両親を「パパ」「ママ」と呼ばなくてはならないのか、納得できなくて呼びません。
琉晴「なんで?」
野々宮「なんででも」
琉晴「なんででもって…なんで?」
野々宮「……なんでだろうな」
琉晴「…なんで?」
野々宮「よし、わかった。じゃあ、琉晴のパパとママはパパとママ。おじさんとおばさんのことは、お父さんとお母さんって呼ぼう」
慶多は、斎木家でそういった疑問を一切口にしません。
パパ(野々宮)から
「これはミッションだ」
「10年経ったら、慶多にもこのミッションがどうして必要だったか分かる」
と言われたので、ミッションを完遂することで精いっぱいです。
パパに褒めてほしいから。
今まで、褒めてもらったことがないから。
できて当たり前の立派なお父さんに認めてほしいから。
そんな慶多がぽつんと誰もいない電気屋のお店の扉の前で座っているのを、斎木の妻が見つけます。
斎木妻「どうした?」
慶多「…」(黙って首を横に振る)
斎木妻「慶多はあ…どこか、壊れちゃったのかな?」
慶多「…」
斎木妻「よーし、じゃあ、おばさんが慶多を修理してあげよう」
斎木妻は自分を母と呼べとは命じず、おばさんと自称し、慶多の気持ちにひたすら寄り添い、修理と称してくすぐって慶多を笑わせます。
そのあとで、野々宮家で琉晴に真実の一部を伝えるシーンがあり、斎木家でのそれはありませんでしたが、おそらく同じように語らざるを得ない場面があったと思います。
琉晴は、育ての親を思慕する気持ちを捨てられず、だけど自分を我が子として大事にしてくれている実の両親の思いも分かる、斎木夫妻によく似た優しい子でした。
琉晴「ごめんなさい」
パパとママのところへ帰りたいか、と訊ねた野々宮に、琉晴はそう答えて泣き顔を両手で覆って隠します。
慶多は、迎えに来た野々宮の両親から逃げます。
野々宮はひたすら慶多と一定の距離を保ったまま追い駆け続けます。
野々宮「パパは、出来が悪いけど、慶多のパパなんだよ」
慶多「パパはパパじゃない」
それは、初めての反抗で、初めての自己主張で、そして初めて親子としてありのままの自分を父親に晒した瞬間だったと思います。
2人の子供が、まったく知らない人間の悪意(病院の看護師が幸せな家庭をねたんで意図的に子供を取り換えたのでした)によって、まだ6歳なのに人生を狂わされ、心に深い傷を負っていた、という事実を鑑賞者に生々しく突き付けてくる瞬間でもありました。
子供は、大人が考えている以上にいろんなことを見抜いて感じて分かっている。
そういうことを思い出させるシーンでもありました。
我が身に置き換えて考えずにはいられない作品でした。
もし、自分が子供を取り換えられていたら。
もし、自分と血の繋がらない子だとしたら。
もし、自分の両親が実の両親ではなかったら。
簡単に答えは出せませんでしたし、今もその答えは出ていません。
いつか必ず事実を知るときが来るので、純粋な子供のうちはさておき、育て方によっては、琉晴の立場なら、
「本当の親は金持ちの家だったのに、この家の子として育ったせいでいい大学へいけなかった」
と思うかもしれない。
(野々宮の血に拘る理由が彼の父親に起因しているので)
慶多の立場であれば、有名な一貫校を卒業してエリートコースを邁進し、高給取りで裕福な暮らしはできるけれど、常に同僚から蹴落とされることに怯えながら過ごす日々が苦痛にしか感じられず、
「本当はもっと家族と過ごせるゆったりとした生活でもいい家の子だったのに」
と、育ての親の厳しい教育を恨むかもしれません。
ずっと交流を続けて、両家の子として育てば、と考えてみたのですが、後々結婚してそれぞれに配偶者ができれば、今度は相続関係で仲良し両家という在りようが崩れる可能性が出て来そう…と、いろいろ、本当にいろいろ考えてしまって、何が「ベスト」なのか分からない状態です。
作品の主題はそこじゃないのですが。笑
是枝監督の作品は好みの作品が多いので、何か刺さるだろうと予想はしていましたが、予想以上のものでした…。
作品を振り返って、改めて『そして父になる』というタイトルの重さを感じます。
父になるには、血だけではないと思わせる作品でした。
だけど、血なんて関係ないとも断言できない作品でした。
そして、
『親は、子に親育てをしてもらっている』
と、しみじみ感じさせる作品でもありました。
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劇場公開前にこの予告編を見て「絶対観る!」と決めただけで観れずじまいにいた作品でした。
この記事を書くに当たって、久し振りに予告動画を観たのですが、印象がかなり変わりました…と今気が付きました。
予告で語られる登場人物の言葉一つ一つが、鑑賞後だと物語の流れを思い出させて涙腺が緩みます。
福山くん演じる野々宮良多が、リリー・フランキーさん演じる斎木さんが、それぞれの奥さんたちが、どんな思いで絞り出すようにそれを発したかが分かってしまうと、勝手に涙腺が緩みます…。
野々宮は、あらすじの紹介にあるとおり、一流企業に勤めて大きなプロジェクトを任されるほど優秀な人間で、職場恋愛で貞淑を絵に描いたような女性を妻にし、息子の慶多にはお受験をさせて競争社会の中で勝ち組になることこそが幸せに生きていく道だと信じて疑っていなかった父親です。
そんな野々宮は、父の離婚と再婚により、継母(風吹ジュンさんの名演にも泣かされました!)を未だに名前で呼ぶような人です。
とても保守的で、競争心に乏しい我が子を頼りなく思っています。
でも、それはおっとりとした妻譲りの気性だと思っている節があり、慶多を生んだ病院から連絡が来るまで取り違えなんて疑ったこともありません。
知らせを受けた野々宮が妻に(というより思わず呟いた独り言ですが)、
「そういうことだったのか」
と発言します。
これを聞いたとき、私の中の母親としての部分が「は?何が?」と、この辺りから野々宮に対する不快感が増していきました。
一方、子供を取り換えられてしまったもう一つの家族、斎木家のご主人は、個人経営で電気屋さんを営んでいる人で、女房に尻を敷かれた情けない父親として描かれた冒頭でした。
取り違えの報告を受けて顔合わせをしたときに初登場するのですが、遅刻した理由を、出掛けにあれやこれやしていた奥さんのせいにしたり、金に穢い物言いをしたり、第一印象があまりよくない描かれ方でした。
中盤で何度か、子供同士をそれぞれの親に馴染ませるために会うのですが、斎木さんはその都度、病院の名前で領収証を切るんですね。
それを見た野々宮が眉を顰める。
その辺りには野々宮に共感を覚えたのですが、物語が進むにつれて、人間として完全ではないそういった部分が些末に感じられるほど、根本的に野々宮のほうが父親として欠如している部分が多過ぎると感じさせる後半です。
強烈な印象になったシーンを挙げるときりがないのですが、その中の一つで、斎木が野々宮に
「父親と遊んだことがないんですか?」
「子供と遊んであげましょうよ」
とアドバイスをするシーン。
野々宮は「なんで電気屋なんか(負け組のヤツなんかに、という気持ちだったのだと思います)そんなことを言われなくちゃならないんだ」と妻に愚痴るのですが、野々宮は斎木のそれに対して、
「自分でないとできない仕事なんですよ」
と言い返します。
そこで斎木が腹立たしげに
「父親だって代わりがきかないでしょう!」
とやや激昂して言うのです。
いつも低姿勢でへらへらとしていた斎木が、初めて素を見せた瞬間でした。
このシーンで私は「父親としての在りよう」で一気に斎木のほうへ好感が偏りました。
母親同士は、直に子供たちを育ててきたので、父親以上に(と比べるのもおかしいのでしょうけれど)葛藤があると思います。
「どうして気付けなかったのか。母親なのに。自分が生んだ子なのに」
「血を分けた子を可愛く思ってしまう。それは6年間息子でいてくれた子への裏切りのように感じてしまう」
それぞれの奥さんは、母親としてまったくキャラクターが違い、ある面では正反対ですらあるのですが…愛情の度合いは比較のしようがないほど、深い。
そしてそれをお互いに感じているからこそ、仲良くなれて、相談もし合えて、悩みや葛藤や苦しみを共有していたのだろうと感じられる母親同士のやり取りでした。
もうこの辺りは涙が止まらなくてどうしようかと思うくらい痛かったです。
そして、取り違えられたそれぞれの家の子供たち。
おおらかでのびのびと育ち、弟妹もいた斎木琉晴は、なぜ仲良くなった慶多の両親を「パパ」「ママ」と呼ばなくてはならないのか、納得できなくて呼びません。
琉晴「なんで?」
野々宮「なんででも」
琉晴「なんででもって…なんで?」
野々宮「……なんでだろうな」
琉晴「…なんで?」
野々宮「よし、わかった。じゃあ、琉晴のパパとママはパパとママ。おじさんとおばさんのことは、お父さんとお母さんって呼ぼう」
慶多は、斎木家でそういった疑問を一切口にしません。
パパ(野々宮)から
「これはミッションだ」
「10年経ったら、慶多にもこのミッションがどうして必要だったか分かる」
と言われたので、ミッションを完遂することで精いっぱいです。
パパに褒めてほしいから。
今まで、褒めてもらったことがないから。
できて当たり前の立派なお父さんに認めてほしいから。
そんな慶多がぽつんと誰もいない電気屋のお店の扉の前で座っているのを、斎木の妻が見つけます。
斎木妻「どうした?」
慶多「…」(黙って首を横に振る)
斎木妻「慶多はあ…どこか、壊れちゃったのかな?」
慶多「…」
斎木妻「よーし、じゃあ、おばさんが慶多を修理してあげよう」
斎木妻は自分を母と呼べとは命じず、おばさんと自称し、慶多の気持ちにひたすら寄り添い、修理と称してくすぐって慶多を笑わせます。
そのあとで、野々宮家で琉晴に真実の一部を伝えるシーンがあり、斎木家でのそれはありませんでしたが、おそらく同じように語らざるを得ない場面があったと思います。
琉晴は、育ての親を思慕する気持ちを捨てられず、だけど自分を我が子として大事にしてくれている実の両親の思いも分かる、斎木夫妻によく似た優しい子でした。
琉晴「ごめんなさい」
パパとママのところへ帰りたいか、と訊ねた野々宮に、琉晴はそう答えて泣き顔を両手で覆って隠します。
慶多は、迎えに来た野々宮の両親から逃げます。
野々宮はひたすら慶多と一定の距離を保ったまま追い駆け続けます。
野々宮「パパは、出来が悪いけど、慶多のパパなんだよ」
慶多「パパはパパじゃない」
それは、初めての反抗で、初めての自己主張で、そして初めて親子としてありのままの自分を父親に晒した瞬間だったと思います。
2人の子供が、まったく知らない人間の悪意(病院の看護師が幸せな家庭をねたんで意図的に子供を取り換えたのでした)によって、まだ6歳なのに人生を狂わされ、心に深い傷を負っていた、という事実を鑑賞者に生々しく突き付けてくる瞬間でもありました。
子供は、大人が考えている以上にいろんなことを見抜いて感じて分かっている。
そういうことを思い出させるシーンでもありました。
我が身に置き換えて考えずにはいられない作品でした。
もし、自分が子供を取り換えられていたら。
もし、自分と血の繋がらない子だとしたら。
もし、自分の両親が実の両親ではなかったら。
簡単に答えは出せませんでしたし、今もその答えは出ていません。
いつか必ず事実を知るときが来るので、純粋な子供のうちはさておき、育て方によっては、琉晴の立場なら、
「本当の親は金持ちの家だったのに、この家の子として育ったせいでいい大学へいけなかった」
と思うかもしれない。
(野々宮の血に拘る理由が彼の父親に起因しているので)
慶多の立場であれば、有名な一貫校を卒業してエリートコースを邁進し、高給取りで裕福な暮らしはできるけれど、常に同僚から蹴落とされることに怯えながら過ごす日々が苦痛にしか感じられず、
「本当はもっと家族と過ごせるゆったりとした生活でもいい家の子だったのに」
と、育ての親の厳しい教育を恨むかもしれません。
ずっと交流を続けて、両家の子として育てば、と考えてみたのですが、後々結婚してそれぞれに配偶者ができれば、今度は相続関係で仲良し両家という在りようが崩れる可能性が出て来そう…と、いろいろ、本当にいろいろ考えてしまって、何が「ベスト」なのか分からない状態です。
作品の主題はそこじゃないのですが。笑
是枝監督の作品は好みの作品が多いので、何か刺さるだろうと予想はしていましたが、予想以上のものでした…。
作品を振り返って、改めて『そして父になる』というタイトルの重さを感じます。
父になるには、血だけではないと思わせる作品でした。
だけど、血なんて関係ないとも断言できない作品でした。
そして、
『親は、子に親育てをしてもらっている』
と、しみじみ感じさせる作品でもありました。
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| 2018-03-01 | Movies Revies |
【18.01.24.】『司書子さんとタンテイさん』感想

司書子さんとタンテイさん ~木苺はわたしと犬のもの~ 冬木洋子・著 (マイナビ出版ファン文庫)
あらすじ:
小さな市立図書館の児童室に勤める司蕭子(つかさ しょうこ)は、プライベートでは泣き虫で人見知り。
ある日“司書子さん”と馴れ馴れしく蕭子を呼ぶ、“タンテイ”、こと、反田とともに、児童室で泣いていた女の子の髪飾りを探すことになるが…。
「本を開けばどこにだって行ける、でも現実の世界はわたしには広すぎる―」。
不器用な本の国の住人が、なけなしの勇気を胸に歩きはじめるハートウォーミング物語。
(「BOOK」データベースより)
【つづきは感想です☆】
Read More »
日本最大と言われている(らしい)小説投稿サイト『小説家になろう』からの書籍化作品の一つです。
『なろう』発の書籍化作品は山ほどあるのですが、この作品のような書籍化への流れは初見だったので(実際にはスカウトも数多くあるそうです)、読み比べたくなり購入しました。
作品感想の前に、その気になる経緯というのを簡単にお話すると、
「作者さんご自身は執筆当時、まったく書籍化の概念がなく、ご自身が創作仲間さんとネタやプロットを考えるのを楽しむ中で出来上がった作品に、ある日突然マイナビ出版さんから書籍化打診のご連絡をいただいた」
という、言ってみればスカウトのような経緯で書籍化された作品です。
(参考エッセイ:340pt作品の書籍化体験記)
私が最初目にしたのはこちらの体験記のほうで、
「これだけ編集者さんを熱くさせる作品ってどんなお話なのだろう」
と興味が湧いた次第です。
小耳に挟んだところによると、
・書籍版は、お仕事ジャンルということで、恋愛要素を『なろう』版よりちょっと薄味に
・『なろう』版は恋愛ジャンル好きな方にも楽しめるテイスト
とのことで。嬉
恋愛ジャンル大好きなので、まずは薄味テイストの書籍版を読んでから、あとでたっぷり『なろう』版を楽しませてもらおうと、そんな順番で読みました。
ちなみに、『なろう』版は↓こちらです。
木苺はわたしと犬のもの ~司書子さんとタンテイさん~
恋愛小説を読むとき、私は男性のキャラを知っていく中で、その作品の好き嫌いを判断してしまう傾向があるのですが、この作品は、
「問答無用で主人公の司書子さんが可愛い!」
と、もうどうしようかと思いました。笑
司書子さんの一人称で語られるこの物語、彼女は祖母に育てられたからか、どこか古風で言葉遣いもとても丁寧。
奥手で個人として人と話すのが苦手な27歳(『なろう』版では三十路越えている設定でしたが)。
司書子さんの視点なので、冒頭では図書館司書ということもあり(私の偏見ですが)、本好きが高じて視力低下、眼鏡はしゃれっ気のない黒縁眼鏡&長いストレートの黒髪を一つに束ねた地味な女の子をイメージして読んでいました。
ひょんなことから図書館常連利用者・反田さんことタンテイさんと関わることになってから、彼女の視界が広がっていきます。
それまで職場である図書館と自宅の往復しかなかった司書子さんは、タンテイさんと一緒に行動をする中で、彼の知り合いなどとも会話をしていくようになり、その中でタンテイさんの知り合いたちの言葉から、彼女が実は美人さんだったことや、彼女のおばあさんもその町でマドンナと言われていた美人さんだったと知っていくに従い、読者も少しずつ司書子さんのビジュアル的なイメージを知っていきます。
その過程が小さな驚きの連続で、そして冒頭でそんな雰囲気を微塵も感じさせないのは、司書子さんの控えめで謙虚な人柄にあるのでは、と気付いて、ますます司書子さんが可愛らしく感じてしまうのです。
そして、司書子さんはとにかく鈍い。笑
人と関わることが苦手なためか、それはもうタンテイさんが不憫、と、彼の肩をポンとしたくなるくらいに、鈍い。笑
タンテイさん自身のためでもありますが、司書子さんのためにもメゲずに頑張って!
と応援したくなる愛らしい鈍感さです。笑←笑い過ぎ…
そのタンテイさんが司書子さんとある意味真逆の性格で、年齢の割にはとても若々しい少年のような、元気で純粋な人です。
とにかくアクティブな人で、じっとしていられない性分で、司書子さん曰く「とても世話好き」という感じの人で、とてもお似合いの2人なので、取り敢えず司書子さん、早く気付こう?と苦笑いとちょっぴり焦れた気持ちを抱いてしまうCPです、微笑ましい…。
この物語に登場する人たちは、お年寄りから子どもまで幅広く、だけど町の人の誰もが優しくていい人たちで、なのに、絵空事をそのまま、という感じの完璧な「いい人」でもない、というところが、とても生身の人間っぽくてリアルでした。
そこには、司書子さんも入ります。
ネタバレになるので伏せますが、目立たず地味で奥ゆかしい司書子さんでも、そしてある意味司書子さんだからこそ、そんな過去も自分1人で秘めておかないと、と自分を戒めるくらい、大切であると同時に申し訳ない気持ちもあったのだろうなあ、と、ここでまた司書子さんが好きになりました。
みんな、それぞれに「申し訳ない」と思ってしまう過去があり、だけどそれは第三者である読者からすれば、彼らのやさしく不器用な人柄に好感を持ってしまうくらい些末で「あるある」な話で。
何気ない一人一人の秘めた思いから人柄を感じてしまい、みんないい人、と安心して読める作品でした。
2つの事件の犯人捜しの物語が基軸になっているのですが、この事件も本格推理小説のような殺人だったり傷害事件だったりするのではなく、ほのぼのとした小さな優しい事件です。
司書子さん本人にしてみたら大事件なのですが。笑
実は私は推理小説が苦手なほうで、うまく咀嚼できなかったり、推理を楽しむことができなかったりするのですが、そんな私でもわくわくしながら読み進められる展開でした。
また、事件を追って解決までの流れや犯人(?)の動機も、なんとなく分かってしまう辺りが、逆に安心感やほっこりとした気持ちを読者に与えてくれます。
あ、でもジギタリス事件簿はまったく犯人の予測ができませんでした。笑
読後感としては、書籍版を読んだ段階でちょっとだけ物足りなさを感じました。
メインが『お仕事小説』であり、リクナビ出版さんからなので、これはもう単純に個人的な好みからくる理由ですが、結局タンテイさんと司書子さんは曖昧な関係のまま終わってしまい、続編が出ないかなあ、という物足りなさでした。笑
ですが!(思わず「!」付。笑)
『なろう』版が規約改正のおかげで削除しなくてよいことになって、本当によかったです!
ネタバレになるので何も感想を語れないのが悔しいですが(笑)、お気に入りの作品は紙書籍派なので、リクナビ出版さんには続編が読みたいです、とお便りを送ってみたいなあ、と思いつつ、そういうことをしたことがないので白い画面を前に悶絶する日々を送っていたら、初読読了からかなり長い時間が過ぎてしまいました。笑
恋愛小説というと、ドキドキしたりハラハラしたり、ドラマティックな展開を連想しがちなのですが、司書子さんとタンテイさんの恋愛には、そういう部分はない…とまでは言えないものの、花火のように百花繚乱、だけど一瞬、みたいな(口汚い言い方をすれば)俗っぽい「恋」というより、綿々と紡ぎ続けていく、長く穏やかな優しい時間を思わせる、とても温かでほっと落ち着く恋愛の在りようだと感じました。
タンテイさん、むkぃゃ言うまい…(ツライ…)
何気に司書子さんの大学時代の教授がイチオシのイケオジでした…。///
相変わらずのおっさんスキーでした、私…。
ちょい出の人ですが、司書子さんの人生に大きく影響した人で、とても奥さん想いな、照れ屋さんなところがステキな教授です。
恩師として素晴らしい人なのです…ちょい出なのですが(それが相当残念だった模様。笑)
もう何度読み返したでしょう。
久し振りに短期間で何度も読み返したくなる、ほっと心を落ち着けられる作品でした。
日々に忙殺されて心がすさんだ時に読むと、本当に心が洗われた気持ちになれます。
みんなが優しくて、一生懸命で、真摯に人と向き合っていて、悩んで迷って、だけど精いっぱいの努力をしている登場人物たちを見ていると、すさんだり腐ったりしている自分が恥ずかしくなってきてしまうくらい、ステキな人たちばかりが出てきます。
作者さんの他作品も拝読したのですが、どの作品にもそんな優しい雰囲気が漂っていて、作品には作者さんの人柄が出るのだなあ、と妙な感心をしてしまいました。
どれだけ知識やリサーチした結果得た情報を詰め込んでみても、自分の中にない人柄までは完璧に作品へ反映させることはできない、と言いましょうか。
(悪い意味ではなく、よい意味で)
そんな作者さん独特のやさしくあたたかな雰囲気があって、オアシスのような作品でした。
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日本最大と言われている(らしい)小説投稿サイト『小説家になろう』からの書籍化作品の一つです。
『なろう』発の書籍化作品は山ほどあるのですが、この作品のような書籍化への流れは初見だったので(実際にはスカウトも数多くあるそうです)、読み比べたくなり購入しました。
作品感想の前に、その気になる経緯というのを簡単にお話すると、
「作者さんご自身は執筆当時、まったく書籍化の概念がなく、ご自身が創作仲間さんとネタやプロットを考えるのを楽しむ中で出来上がった作品に、ある日突然マイナビ出版さんから書籍化打診のご連絡をいただいた」
という、言ってみればスカウトのような経緯で書籍化された作品です。
(参考エッセイ:340pt作品の書籍化体験記)
私が最初目にしたのはこちらの体験記のほうで、
「これだけ編集者さんを熱くさせる作品ってどんなお話なのだろう」
と興味が湧いた次第です。
小耳に挟んだところによると、
・書籍版は、お仕事ジャンルということで、恋愛要素を『なろう』版よりちょっと薄味に
・『なろう』版は恋愛ジャンル好きな方にも楽しめるテイスト
とのことで。嬉
恋愛ジャンル大好きなので、まずは薄味テイストの書籍版を読んでから、あとでたっぷり『なろう』版を楽しませてもらおうと、そんな順番で読みました。
ちなみに、『なろう』版は↓こちらです。
木苺はわたしと犬のもの ~司書子さんとタンテイさん~
恋愛小説を読むとき、私は男性のキャラを知っていく中で、その作品の好き嫌いを判断してしまう傾向があるのですが、この作品は、
「問答無用で主人公の司書子さんが可愛い!」
と、もうどうしようかと思いました。笑
司書子さんの一人称で語られるこの物語、彼女は祖母に育てられたからか、どこか古風で言葉遣いもとても丁寧。
奥手で個人として人と話すのが苦手な27歳(『なろう』版では三十路越えている設定でしたが)。
司書子さんの視点なので、冒頭では図書館司書ということもあり(私の偏見ですが)、本好きが高じて視力低下、眼鏡はしゃれっ気のない黒縁眼鏡&長いストレートの黒髪を一つに束ねた地味な女の子をイメージして読んでいました。
ひょんなことから図書館常連利用者・反田さんことタンテイさんと関わることになってから、彼女の視界が広がっていきます。
それまで職場である図書館と自宅の往復しかなかった司書子さんは、タンテイさんと一緒に行動をする中で、彼の知り合いなどとも会話をしていくようになり、その中でタンテイさんの知り合いたちの言葉から、彼女が実は美人さんだったことや、彼女のおばあさんもその町でマドンナと言われていた美人さんだったと知っていくに従い、読者も少しずつ司書子さんのビジュアル的なイメージを知っていきます。
その過程が小さな驚きの連続で、そして冒頭でそんな雰囲気を微塵も感じさせないのは、司書子さんの控えめで謙虚な人柄にあるのでは、と気付いて、ますます司書子さんが可愛らしく感じてしまうのです。
そして、司書子さんはとにかく鈍い。笑
人と関わることが苦手なためか、それはもうタンテイさんが不憫、と、彼の肩をポンとしたくなるくらいに、鈍い。笑
タンテイさん自身のためでもありますが、司書子さんのためにもメゲずに頑張って!
と応援したくなる愛らしい鈍感さです。笑←笑い過ぎ…
そのタンテイさんが司書子さんとある意味真逆の性格で、年齢の割にはとても若々しい少年のような、元気で純粋な人です。
とにかくアクティブな人で、じっとしていられない性分で、司書子さん曰く「とても世話好き」という感じの人で、とてもお似合いの2人なので、取り敢えず司書子さん、早く気付こう?と苦笑いとちょっぴり焦れた気持ちを抱いてしまうCPです、微笑ましい…。
この物語に登場する人たちは、お年寄りから子どもまで幅広く、だけど町の人の誰もが優しくていい人たちで、なのに、絵空事をそのまま、という感じの完璧な「いい人」でもない、というところが、とても生身の人間っぽくてリアルでした。
そこには、司書子さんも入ります。
ネタバレになるので伏せますが、目立たず地味で奥ゆかしい司書子さんでも、そしてある意味司書子さんだからこそ、そんな過去も自分1人で秘めておかないと、と自分を戒めるくらい、大切であると同時に申し訳ない気持ちもあったのだろうなあ、と、ここでまた司書子さんが好きになりました。
みんな、それぞれに「申し訳ない」と思ってしまう過去があり、だけどそれは第三者である読者からすれば、彼らのやさしく不器用な人柄に好感を持ってしまうくらい些末で「あるある」な話で。
何気ない一人一人の秘めた思いから人柄を感じてしまい、みんないい人、と安心して読める作品でした。
2つの事件の犯人捜しの物語が基軸になっているのですが、この事件も本格推理小説のような殺人だったり傷害事件だったりするのではなく、ほのぼのとした小さな優しい事件です。
司書子さん本人にしてみたら大事件なのですが。笑
実は私は推理小説が苦手なほうで、うまく咀嚼できなかったり、推理を楽しむことができなかったりするのですが、そんな私でもわくわくしながら読み進められる展開でした。
また、事件を追って解決までの流れや犯人(?)の動機も、なんとなく分かってしまう辺りが、逆に安心感やほっこりとした気持ちを読者に与えてくれます。
あ、でもジギタリス事件簿はまったく犯人の予測ができませんでした。笑
読後感としては、書籍版を読んだ段階でちょっとだけ物足りなさを感じました。
メインが『お仕事小説』であり、リクナビ出版さんからなので、これはもう単純に個人的な好みからくる理由ですが、結局タンテイさんと司書子さんは曖昧な関係のまま終わってしまい、続編が出ないかなあ、という物足りなさでした。笑
ですが!(思わず「!」付。笑)
『なろう』版が規約改正のおかげで削除しなくてよいことになって、本当によかったです!
ネタバレになるので何も感想を語れないのが悔しいですが(笑)、お気に入りの作品は紙書籍派なので、リクナビ出版さんには続編が読みたいです、とお便りを送ってみたいなあ、と思いつつ、そういうことをしたことがないので白い画面を前に悶絶する日々を送っていたら、初読読了からかなり長い時間が過ぎてしまいました。笑
恋愛小説というと、ドキドキしたりハラハラしたり、ドラマティックな展開を連想しがちなのですが、司書子さんとタンテイさんの恋愛には、そういう部分はない…とまでは言えないものの、花火のように百花繚乱、だけど一瞬、みたいな(口汚い言い方をすれば)俗っぽい「恋」というより、綿々と紡ぎ続けていく、長く穏やかな優しい時間を思わせる、とても温かでほっと落ち着く恋愛の在りようだと感じました。
タンテイさん、むkぃゃ言うまい…(ツライ…)
何気に司書子さんの大学時代の教授がイチオシのイケオジでした…。///
相変わらずのおっさんスキーでした、私…。
ちょい出の人ですが、司書子さんの人生に大きく影響した人で、とても奥さん想いな、照れ屋さんなところがステキな教授です。
恩師として素晴らしい人なのです…ちょい出なのですが(それが相当残念だった模様。笑)
もう何度読み返したでしょう。
久し振りに短期間で何度も読み返したくなる、ほっと心を落ち着けられる作品でした。
日々に忙殺されて心がすさんだ時に読むと、本当に心が洗われた気持ちになれます。
みんなが優しくて、一生懸命で、真摯に人と向き合っていて、悩んで迷って、だけど精いっぱいの努力をしている登場人物たちを見ていると、すさんだり腐ったりしている自分が恥ずかしくなってきてしまうくらい、ステキな人たちばかりが出てきます。
作者さんの他作品も拝読したのですが、どの作品にもそんな優しい雰囲気が漂っていて、作品には作者さんの人柄が出るのだなあ、と妙な感心をしてしまいました。
どれだけ知識やリサーチした結果得た情報を詰め込んでみても、自分の中にない人柄までは完璧に作品へ反映させることはできない、と言いましょうか。
(悪い意味ではなく、よい意味で)
そんな作者さん独特のやさしくあたたかな雰囲気があって、オアシスのような作品でした。
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| 2018-01-24 | Books Reviews |
【18.01.06.】『DEVILMAN Crybaby』鑑賞

DEVILMAN crybaby
あらすじ:
泣き虫の高校生・不動明は、幼なじみの飛鳥了と再会し、危険なパーティに誘われた。
そこで明は見る。悪魔に変わっていく人々を。
そしてまた明自身も……。
(DEVILMAN Crybaby公式サイトより)
【つづきはネタバレ感想です】
Read More »
全10話鑑賞直後、これを書き始めている現在時刻は午前5時なのですが、何から書けばいいか…っ。
Wikipediaによると、デビルマンが週刊少年マガジンで連載開始したのが1972年6月くらい?(25号から)
1ヶ月後の7月からアニメ化で放送開始みたいです。
リアルタイムで放送されているころの私が視聴できるはずがないのですが、再放送で観ていたのかもしれません。
なぜか青い肌の色にデフォルメされたデビルマンが空を飛んでいるシーンだけ記憶鮮明。
あとはなぜか私の汁椀がデビルマンでした。笑
その後OVAが出ているようですが、それは鑑賞していません。
(実写版は一応円盤で観ましたが記憶に残ってない…)
実はOL時代、職場の資料用戸棚に永井豪好きな上司が『ヴァイオレンス・ジャック』と『デビルマン』を昼休みに社員が読めるようにと置いてくださっていたのですが、これを読んで半端ないバッドエンドに仕事が手につかなかったというトラウマがありまして。苦笑
という個人的な前振りはいい加減にオシマイにして、そんな流れで本作の感想。
観る気になったのは、永井さんの絵柄じゃないから、少しは映像的に耐えられるかな、と思ったからでした。
あとは、あの救いのない絶望的な終わり方にも関わらず、それでもストーリーが好きだから。
人間の醜さをこれでもかというほど露出させているにも関わらず、諦めずに人の善意や理性、強い意志を信じたいと思えるのは、ひとえに明くんという存在のおかげで、彼を慕い追随し、飛鳥了と戦ってくれるデビルマンたちが結集してくれるあのシーンが私にとっての救いでした。
その結果がどうであれ、定められている何かしらに屈服させられて個を諦めるのではなく、最後まで自分で在り続けることの崇高さを垣間見た気がするので、原作初読が四半世紀前なのですが、それは今回この作品でストーリーを辿り直してもやっぱり変わることのない感想でした。
脚本がどれだけ原作を尊重してリスペクトされたのか、作画班がどれほど見せ場に全力投球して永井作品であることを前面に押し出しているのかを感じさせられる映像とストーリーです。
72年と言えば、スマホどころかケータイすらない時代。
やっと沖縄が日本に返還されたころ。
原作を読んだ当時、なぜにデビルマンが日本にばかり、とか、いきなり終盤で世界戦争になっていたり、という無茶振りな展開と感じていた部分が、今回のアニメ化では現代に即した様々な設定を施されており、若い世代の人でも(趣味嗜好で合わない場合はさておき)見応えのある作品になっていました。
例えば原作では、牧村家に悪魔疑惑が掛けられて美樹ちゃんがああいったことになるのですが、その根幹にあるのは「近隣住民の無責任な噂」だったと記憶しています。
飛鳥了が、明くんがデビルマンだと暴露したところは同じですが、明くんと暮らしている牧村家の人間も悪魔に違いない、みたいな展開だったかと思います(記憶不鮮明なので、もし違っていたらすみません)。
本作では、現代らしく、美樹ちゃん自身がSNSを通じて、
「明くんは悪魔だけれど、心は変わらない人間です」
「明くんは悪魔の体を持つけれど人間の心を持っている人をデビルマンと言っていました」
「明くんは人のために涙を流す人です」
「自分のために涙を流したことがない、強い人です」
「そういう優しい人を、人間でも悪魔でも、私は受け容れます」
と訴えます。
それに対して速攻でリプライがつくのです。
「コイツやべえ」
「頭涌いてる」
「この女も悪魔じゃね?」
「パクリ乙」←72年版デビルマンが放映された過去の描写が作中で散見されます。
「デビルマンここにもいたw」
「悪☆魔☆降☆臨」
罵詈雑言の嵐が画面いっぱいに乱れ飛ぶ様は、日ごろネットで見るアレそのもので、明くんではありませんが、人間こそがデビルマンより悪魔に近い存在だ、という憎悪が湧きました。
この作品で永井さんが描いた根幹をそのままに、ため息が出るほど素晴らしいデフォルメの仕方で現代に合わせた構成や設定になっています。
とにかくキャラのヴィジュアルが全然違うので、まったく期待せずに観たんです。
美樹ちゃんはおかっぱ頭じゃないし、キャラデザは完全に永井豪キャラからかけ離れた今どきの絵柄だし、どうなんですか?と(す、すみません…)
彩色も割とベタ塗りで、予算の関係上、あまり作り込みができないのかなあ、なんて憶測まで浮かんでいました。
違った…と、思います。
緻密な作画のI.G.作品を好んでいるため、前述のような憶測が飛んだものの、観てみれば、I.G.レベルの緻密さでデビルマンやられたら心が死にます…PTSDレベルのグロになると思う…というくらいには原作に忠実なグロ描写、グロシーンの色合いは、どこか『シン・シティ』を思わせました。
敢えて血の色を赤にしないことで幾分か緩和、みたいな。
それほど描写そのものがグロでした。
グロが好きなわけではありませんが、凄惨であればあるほど、明くんの悲嘆が観る側にも強く感じさせるような気がします。
グロだけではなく、モーションがすごくよかった。
(よかった、という表現はなんか違う気がしますが)
両手腕脚の動きがエロティック。
すみません、明くん限定です…。
ミーコも悪魔化してからの走る動きがすごく躍動的で、人外を思わせる獣的な動きがとても魅力的でした。
全10話と尺が短いので、若干ダイジェストっぽい感覚に陥る部分もありますが、原作でさらっと10P以内で収めていた部分をガッツリ1話で構成していたのは、1人スタンディングオベーションしてしまうくらい嬉しかった…という表現も合わないのですが、適切な語彙を持ち合わせておりません…。
最終話で、明くんだけでなく他のデビルマンたちも明くんと同じ悲しみや絶望や悪魔殲滅への強い使命感を持っていて、彼らは自分が死ぬと分かっていても、欠損した明くんの部位を補填していきます。
そのシーンは見事なオリジナル脚本だったと思います。
また、終盤の牧村家の前でのあれやそれやも、オリジナルキャラクターが登場していまして、彼らの使い方がとても素晴らしかったです。
原作では一家が一度に牧村家で…という展開だったのですが、本作では美樹ちゃんの弟、タロが悪魔化していることに気付いたお母さんが、それをお父さんや美樹ちゃんには告げずにタロとともに家を出ます。
お父さんが2人を探し出したとき、そこに見たのは最愛の妻を食らっている息子…。
お父さんは「おまえはもう俺の息子じゃない!」と何度も銃口を向けるのに、どうしても撃てない。
このオリジナルシーンを入れるために、前述のオリキャラたちが美樹ちゃんを守るために登場したのではないかと。
お父さんの葛藤はそのまま観る側の葛藤にもなり、凄惨さだけでなく、「悪魔化」というフィクションの部分を現実になぞらえたあれこれに置き換えたときの逡巡を彷彿とさせ、とても苦しく胸の痛む思いで一連を視聴してしまいました…。
また別のオリジナル部分で、同性愛の人が登場しています。
悪魔化した一方が、幼馴染で大切に思っていた相手を悪魔化した際に殺してしまったっぽいシーンが出てきます。
彼は心を失くしてはおらず、ずっと泣き続けている。
この辺りも現代に即すために挿入されたオリジナル部分ですが、なぜ同性愛者を取り入れたか、と言えば、すべての人に言えることであり、蚊帳の外から眺めることを許さないという創り手側からのメッセージなのかなあ、などと愚考。
明くんと美樹ちゃんが異性愛であれば、そのサブキャラの恋愛は同性愛。明くんと飛鳥了は4つの性の全てが男性である明くんと、4つの性に不一致が見られる飛鳥了、という関係。
愛憎という心理において、例外は一つもないというメッセージと受け止めています。
オリジナル要素が入っていても原作と負けず劣らずの素晴らしい脚本でした。
声優陣がどの方も(エキストラ含めて)登場人物の心情を見事に演じていて、その点も本作の素晴らしかった点です。
シレーヌが田中敦子さん(甲殻の素子さん)、最高でした…もう、ホント最高でした…。
住民9「永井豪」には笑いました…原作者…気付かなかった…っ。笑
最後の最後、原作では見開き2Pで締めたシーン、原作の飛鳥了は何も語らず表情だけで彼(彼女?)の絶望を表現していましたが、本作でははっきりと(本人にはこれまでない概念だったので明確な言葉としてはないのですが)自覚していました。
あとは観る人に託されているのでしょうか。
それとも私が深く共感・分析できていないだけかもしれませんが、飛鳥了が明くんを抱きしめて号泣したあと、堕天使であるサタン以外の天使が降臨、割れた月は2つになり、地球は元の青い地球に戻っています。
飛鳥了=サタンやその仲間だった悪魔たちは、神が遣わした天使たちに殲滅されたのか、それとも悪魔でありながら人の心を知って持つようになったサタンもデビルマンという認識をされた中で神の制裁を受けたのか。
この辺りは未だいろいろと考えてしまっています。
せめて、人の心を持った中で飛鳥了も滅されていれば、少しは救いかなあ、と。
余談ですが、ひたすらにアモンを取り込んだ明くんの筋肉にフィーバーしてました。笑
主に細マッチョな上腕二頭筋と逆三角形と腹筋に。笑
NETFLIX、有料ですが契約してよかったと思います。
オリジナル作品に秀逸なものが多い。
3月から公開開始の『B: The Beginning』も非常に楽しみにしております。
(こちらは大好きI.G.さん制作なので安心して観られる&平田さんバンザイ作品のようなので!)
NETFLIXさんは契約したばかりなのでよく分かっていないのですが、配信終了してしまうこともあるのでしょうかね?
もしそうなら円盤欲しいな、と思ったり、でも円盤化されるのかな、とか、まるで分かってないので、また調べないと…。
久し振りに長々と語りたくなってしまう新作を観ることができて大満足の逸品でした。
(と、備忘録せずにはおれなかった…)
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全10話鑑賞直後、これを書き始めている現在時刻は午前5時なのですが、何から書けばいいか…っ。
Wikipediaによると、デビルマンが週刊少年マガジンで連載開始したのが1972年6月くらい?(25号から)
1ヶ月後の7月からアニメ化で放送開始みたいです。
リアルタイムで放送されているころの私が視聴できるはずがないのですが、再放送で観ていたのかもしれません。
なぜか青い肌の色にデフォルメされたデビルマンが空を飛んでいるシーンだけ記憶鮮明。
あとはなぜか私の汁椀がデビルマンでした。笑
その後OVAが出ているようですが、それは鑑賞していません。
(実写版は一応円盤で観ましたが記憶に残ってない…)
実はOL時代、職場の資料用戸棚に永井豪好きな上司が『ヴァイオレンス・ジャック』と『デビルマン』を昼休みに社員が読めるようにと置いてくださっていたのですが、これを読んで半端ないバッドエンドに仕事が手につかなかったというトラウマがありまして。苦笑
という個人的な前振りはいい加減にオシマイにして、そんな流れで本作の感想。
観る気になったのは、永井さんの絵柄じゃないから、少しは映像的に耐えられるかな、と思ったからでした。
あとは、あの救いのない絶望的な終わり方にも関わらず、それでもストーリーが好きだから。
人間の醜さをこれでもかというほど露出させているにも関わらず、諦めずに人の善意や理性、強い意志を信じたいと思えるのは、ひとえに明くんという存在のおかげで、彼を慕い追随し、飛鳥了と戦ってくれるデビルマンたちが結集してくれるあのシーンが私にとっての救いでした。
その結果がどうであれ、定められている何かしらに屈服させられて個を諦めるのではなく、最後まで自分で在り続けることの崇高さを垣間見た気がするので、原作初読が四半世紀前なのですが、それは今回この作品でストーリーを辿り直してもやっぱり変わることのない感想でした。
脚本がどれだけ原作を尊重してリスペクトされたのか、作画班がどれほど見せ場に全力投球して永井作品であることを前面に押し出しているのかを感じさせられる映像とストーリーです。
72年と言えば、スマホどころかケータイすらない時代。
やっと沖縄が日本に返還されたころ。
原作を読んだ当時、なぜにデビルマンが日本にばかり、とか、いきなり終盤で世界戦争になっていたり、という無茶振りな展開と感じていた部分が、今回のアニメ化では現代に即した様々な設定を施されており、若い世代の人でも(趣味嗜好で合わない場合はさておき)見応えのある作品になっていました。
例えば原作では、牧村家に悪魔疑惑が掛けられて美樹ちゃんがああいったことになるのですが、その根幹にあるのは「近隣住民の無責任な噂」だったと記憶しています。
飛鳥了が、明くんがデビルマンだと暴露したところは同じですが、明くんと暮らしている牧村家の人間も悪魔に違いない、みたいな展開だったかと思います(記憶不鮮明なので、もし違っていたらすみません)。
本作では、現代らしく、美樹ちゃん自身がSNSを通じて、
「明くんは悪魔だけれど、心は変わらない人間です」
「明くんは悪魔の体を持つけれど人間の心を持っている人をデビルマンと言っていました」
「明くんは人のために涙を流す人です」
「自分のために涙を流したことがない、強い人です」
「そういう優しい人を、人間でも悪魔でも、私は受け容れます」
と訴えます。
それに対して速攻でリプライがつくのです。
「コイツやべえ」
「頭涌いてる」
「この女も悪魔じゃね?」
「パクリ乙」←72年版デビルマンが放映された過去の描写が作中で散見されます。
「デビルマンここにもいたw」
「悪☆魔☆降☆臨」
罵詈雑言の嵐が画面いっぱいに乱れ飛ぶ様は、日ごろネットで見るアレそのもので、明くんではありませんが、人間こそがデビルマンより悪魔に近い存在だ、という憎悪が湧きました。
この作品で永井さんが描いた根幹をそのままに、ため息が出るほど素晴らしいデフォルメの仕方で現代に合わせた構成や設定になっています。
とにかくキャラのヴィジュアルが全然違うので、まったく期待せずに観たんです。
美樹ちゃんはおかっぱ頭じゃないし、キャラデザは完全に永井豪キャラからかけ離れた今どきの絵柄だし、どうなんですか?と(す、すみません…)
彩色も割とベタ塗りで、予算の関係上、あまり作り込みができないのかなあ、なんて憶測まで浮かんでいました。
違った…と、思います。
緻密な作画のI.G.作品を好んでいるため、前述のような憶測が飛んだものの、観てみれば、I.G.レベルの緻密さでデビルマンやられたら心が死にます…PTSDレベルのグロになると思う…というくらいには原作に忠実なグロ描写、グロシーンの色合いは、どこか『シン・シティ』を思わせました。
敢えて血の色を赤にしないことで幾分か緩和、みたいな。
それほど描写そのものがグロでした。
グロが好きなわけではありませんが、凄惨であればあるほど、明くんの悲嘆が観る側にも強く感じさせるような気がします。
グロだけではなく、モーションがすごくよかった。
(よかった、という表現はなんか違う気がしますが)
両手腕脚の動きがエロティック。
すみません、明くん限定です…。
ミーコも悪魔化してからの走る動きがすごく躍動的で、人外を思わせる獣的な動きがとても魅力的でした。
全10話と尺が短いので、若干ダイジェストっぽい感覚に陥る部分もありますが、原作でさらっと10P以内で収めていた部分をガッツリ1話で構成していたのは、1人スタンディングオベーションしてしまうくらい嬉しかった…という表現も合わないのですが、適切な語彙を持ち合わせておりません…。
最終話で、明くんだけでなく他のデビルマンたちも明くんと同じ悲しみや絶望や悪魔殲滅への強い使命感を持っていて、彼らは自分が死ぬと分かっていても、欠損した明くんの部位を補填していきます。
そのシーンは見事なオリジナル脚本だったと思います。
また、終盤の牧村家の前でのあれやそれやも、オリジナルキャラクターが登場していまして、彼らの使い方がとても素晴らしかったです。
原作では一家が一度に牧村家で…という展開だったのですが、本作では美樹ちゃんの弟、タロが悪魔化していることに気付いたお母さんが、それをお父さんや美樹ちゃんには告げずにタロとともに家を出ます。
お父さんが2人を探し出したとき、そこに見たのは最愛の妻を食らっている息子…。
お父さんは「おまえはもう俺の息子じゃない!」と何度も銃口を向けるのに、どうしても撃てない。
このオリジナルシーンを入れるために、前述のオリキャラたちが美樹ちゃんを守るために登場したのではないかと。
お父さんの葛藤はそのまま観る側の葛藤にもなり、凄惨さだけでなく、「悪魔化」というフィクションの部分を現実になぞらえたあれこれに置き換えたときの逡巡を彷彿とさせ、とても苦しく胸の痛む思いで一連を視聴してしまいました…。
また別のオリジナル部分で、同性愛の人が登場しています。
悪魔化した一方が、幼馴染で大切に思っていた相手を悪魔化した際に殺してしまったっぽいシーンが出てきます。
彼は心を失くしてはおらず、ずっと泣き続けている。
この辺りも現代に即すために挿入されたオリジナル部分ですが、なぜ同性愛者を取り入れたか、と言えば、すべての人に言えることであり、蚊帳の外から眺めることを許さないという創り手側からのメッセージなのかなあ、などと愚考。
明くんと美樹ちゃんが異性愛であれば、そのサブキャラの恋愛は同性愛。明くんと飛鳥了は4つの性の全てが男性である明くんと、4つの性に不一致が見られる飛鳥了、という関係。
愛憎という心理において、例外は一つもないというメッセージと受け止めています。
オリジナル要素が入っていても原作と負けず劣らずの素晴らしい脚本でした。
声優陣がどの方も(エキストラ含めて)登場人物の心情を見事に演じていて、その点も本作の素晴らしかった点です。
シレーヌが田中敦子さん(甲殻の素子さん)、最高でした…もう、ホント最高でした…。
住民9「永井豪」には笑いました…原作者…気付かなかった…っ。笑
最後の最後、原作では見開き2Pで締めたシーン、原作の飛鳥了は何も語らず表情だけで彼(彼女?)の絶望を表現していましたが、本作でははっきりと(本人にはこれまでない概念だったので明確な言葉としてはないのですが)自覚していました。
あとは観る人に託されているのでしょうか。
それとも私が深く共感・分析できていないだけかもしれませんが、飛鳥了が明くんを抱きしめて号泣したあと、堕天使であるサタン以外の天使が降臨、割れた月は2つになり、地球は元の青い地球に戻っています。
飛鳥了=サタンやその仲間だった悪魔たちは、神が遣わした天使たちに殲滅されたのか、それとも悪魔でありながら人の心を知って持つようになったサタンもデビルマンという認識をされた中で神の制裁を受けたのか。
この辺りは未だいろいろと考えてしまっています。
せめて、人の心を持った中で飛鳥了も滅されていれば、少しは救いかなあ、と。
余談ですが、ひたすらにアモンを取り込んだ明くんの筋肉にフィーバーしてました。笑
主に細マッチョな上腕二頭筋と逆三角形と腹筋に。笑
NETFLIX、有料ですが契約してよかったと思います。
オリジナル作品に秀逸なものが多い。
3月から公開開始の『B: The Beginning』も非常に楽しみにしております。
(こちらは大好きI.G.さん制作なので安心して観られる&平田さんバンザイ作品のようなので!)
NETFLIXさんは契約したばかりなのでよく分かっていないのですが、配信終了してしまうこともあるのでしょうかね?
もしそうなら円盤欲しいな、と思ったり、でも円盤化されるのかな、とか、まるで分かってないので、また調べないと…。
久し振りに長々と語りたくなってしまう新作を観ることができて大満足の逸品でした。
(と、備忘録せずにはおれなかった…)
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