11. アダムの混沌(2)
高木の案件、仕上げの日。気が進まないものの、高木にはこちらに不審を抱かせる懸念がある為、潤からの依頼は続行せよと言われていたので、克也に最後のアシストを頼んだ。決行の今夜、潤だけがフリーだったので仕方がない。
克也に頼んだ仕事――自分が牧瀬邸での仕事を終えるまでの間、潤を引きとめて時間を稼いでもらうこと。
二人がレストランに入店するのを見届けると、辰巳は幾分かの未練を残しつつもその場を離れ牧瀬良一郎の自宅へ向かった。
牧瀬医院の一階と連結させたもう一棟が牧瀬の自宅となっている。病院の方へバイクを停めると、辰巳はバックパックを肩に掛け、自宅二階から侵入した。
住人がしばらく立ち入っていない様子から、そこが潤の部屋だと推察された。
「親父に言われて拉致って来る可能性もある……かな」
懸念の言葉に溜息が混じる。自分が慎重さに掛けていたことを、この十数日間、何度悔やんだだろう。悔いを振り切るとばかりに強く左右へ頭を振ると、万が一克也が拉致された場合に備え、潤の私室へカメラを設置した。今更悔やんでも仕方がない。今夜でそんな心配も終わらせるつもりでいた。
階下へ降りて、扉の隙間からわずかに零れる光の筋へ向かって歩く。扉のロックは至極簡単な作りではあるが、ただ一度、引っ掛けた針金が施錠を解除した瞬間「カチャ」という音を響かせ、辰巳に一瞬だけ冷や汗を掻かせた。だがその後も気配が変わらぬことから、良一郎が何かに没頭していることが推察される。そっと扉を開けてみると、入口に面した書斎の最奥、デスクに据えられたパソコンへ夢中で何かをタイプしている彼の背中が視界に飛び込んで来た。
「こ〜んばんは、牧瀬良一郎センセ」
「だ、誰だ……お前、海藤の……っ!」
彼は大袈裟なほど肩を揺らして振り返ったかと思うと、震えた声で辰巳の正体を察したとうかがわせる言葉を発した。同時に彼の肘がデスクから書類をぶちまける。辰巳の足許に、一枚の写真が舞い滑って来た。見ればまだナチュラルブラウンだった頃の自分と、東京にいた頃の怯えた目をした克也を盗撮したものだった。
「……ふん」
面白くもなさそうに鼻を鳴らし、それを懐にしまい込む。それと差し替え手にしたのは、愛用のひとつ、トカレフだった。
「ひ……っ」
「ひとつ、尋ねたいことがあるんだけど」
あとずさる牧瀬の襟首を掴み、腰を上げた椅子へ再び座らせる。間髪入れずに彼の口へ銃口(マズル)を咥え込ませ、自分の胸元をもう一方の手で指差した。
「これ、俺の大事な宝物なんだ。もう親父に報告が済んでいるのか?」
問う声の低さに牧瀬は慄き、即座に首を横に振る仕草を見せた。
「ホント?」
確認しながら嘘は容赦しないともう一方に携えたコルト・ウッズマンを眉間に当てる。辰巳がわずかに右足を浮かせた時、不快な液体が立てる「ぴしゃ」という音が余計に辰巳を苛立たせた。
「親父の駒やってる割には、えらく小心者だな。ちびってんじゃねえよ、汚ねえな」
だが、嘘をつく余裕もないと判ったのは幸いだった。克也の存在がまだ海藤にはばれていない。それであれば――。
「ま、今回は特別に許してあげよう」
牧瀬に動いてもらわねば困る。少しは恐怖心を和らげてやろうと笑い掛けてやったのに。余計に強張り震え出す彼の様を見て、疲弊を感じながらも椅子を百八十度回転させた。パソコンに面した牧瀬に向かい、淡々と彼に指示をする。
「今から俺が言うことを、そのまま馬場に送信しな」
既に宛先は馬場にされてある。恐らく馬場を通して海藤へ辰巳や克也の情報を送るつもりでいたのだろう。間一髪で間に合ったことが、少しだけ辰巳を冷静にさせた。
「『これ以上協力は出来ない。これでも医者の端くれである。私を信じて縋る、幼い患者やその両親の瞳に私の良心がもう耐え兼ねた。ある人物に宛ててデータを本庁へ極秘に届くよう手配した。遠からず捜査の手がそちらにも延びるだろう。裏切りの贖罪に、君へ事前にその旨知らせておく。君が一医師としての誇りをまだ持ち、しかるべき選択をすると信じる。私は死を以て犠牲者へ罪を償おうと思う。』と。以上」
最後の一文を打つ牧瀬の指が、震えてなかなか打てないでいる。いちいち苛つかせる小心者の後頭部へ、銃口を強く押しつけた。
「今死ぬ方をご希望?」
冷ややかな問いを彼の耳許へ送り届けると、彼は幼児さながらの泣き方でしゃくりあげながら最後の一文をタイプし、送信ボタンをクリックした。
「はい、ご苦労さん」
言うが早いか、辰巳は彼の急所を強く打ちつけ彼を無理矢理眠らせた。これで、遅かれ早かれ裏切った牧瀬を海藤が生かしておくことはないだろう。自殺なり何なりの形を取って、勝手に向こうで処理してくれるに違いない。
(あいつは、そういうヤツだ)
ふと思い立つ。どうせなら、うっとうしい害虫な息子もまとめて処理してやろう。
辰巳は関係データに潤の名前を追記した。勿論、改ざんの痕跡を残さずに。
「きったね。ったくもう」
牧瀬の失禁で汚れた靴を、不届きにもキッチンで洗い流す。視線を流した先に、たまたまフルーツバスケットが目に入った。艶のよい美しく青い林檎の光沢に何故か魅了され、吸い寄せられるようにそれを手に取った。
「……どこの生産だ、これ」
思わず感嘆の声が漏れるほど、その絶妙な酸味にひと目惚れした。思考が『裏』から表の自分へと切り替わる。家の林檎パイの林檎を、次はここから取り寄せよう。コストは合うだろうか。そんなことを考えながら、包装されたままの林檎をバックパックへひとつ放り込む。
「ふざけろよ、ったく。クソ男女が」
喫茶『Canon』のマスターとしての思考が、またもや元の自分へと切り替えさせられた――牧瀬潤の声だ。
(克也はうまいこと逃げ切ったようだな)
こちらの用件は、もう済んだ。辰巳は潤が階段を上がり切った気配を確認すると、こっそりと、しかし堂々と玄関から牧瀬の自宅をあとにした。
病院側へ停めたバイクへ向かう手前に牧瀬個人の駐車場を通り過ぎる。当然と言えば当然目につく潤の愛車、その停め方の小さな違いにふと気づく。
(……防犯センサーが、オフになってる)
店に車で立ち寄る時、彼は必ず防犯センサーをオンにする。密かにいつも思っていた。
『車と同じくらい女も大事にしろよ』
と。そう呆れてしまうくらい車を大事にするあの若造が、青空駐車に近いこの場所でセンサーをオフにするとすれば、それなりのイレギュラーが彼の身に起こっていると考えるのが妥当だろう。
人の気配の有無を確認すると、彼の愛車にそっと近づき目視で車内を確認した。後部座席へ無造作に放り出されていた紙袋。そこから、克也が出掛けに着ていたはずの服が覗いていた。
背負ったバックパックを下ろしたのは、背に走る汗の気持ち悪さからだけではなく。
(保険が利いたな)
モニタと受信機を取り出し路面にセットしながら、自賛で焦燥を誤魔化そうとするが、巧く自分を落ち着けることが出来ない。手許が狂い若干手間取った。
どうにかセッティングを終えると、急いでイヤホンを押し当てる。傍受先は牧瀬潤の私室。映像は巧く拾えずノイズ交じりだったが、音声は意外とクリアに受信出来た。
『……ホント、そっくり顔してる癖に、気性はあの子と全然違うんだね』
(――克也と、そっくりな、子……?)
そのひと言で即座に浮かんだ、大きな吊り目が寂しげな少女。自分のミスの象徴とも言える、克也とよく似た女の子。
『心友だったんだってね、来栖の妹ちゃんと。好みの子だったんだけど、こっちが飽きる前に逃げられちゃってさ。キミのことは後輩から聞いてタゲってみたけど、ホント、性格があの子とは全然違う』
次の潤の言葉が、辰巳のリミッターを切った。
――まだ大人しくヤられてた分、翠ちゃんの方がマシだったな。
どこかで聞いた気がする名前。高木も同じことを言っていた。
「そうだ……こいつ、顔を変えていやがったのか」
二年ほど前、来栖翠のことを調べ翠の堕胎の事実が判った時、その父親として名前を貸した男の名が『牧瀬潤』だったことを思い出した。何故そんな大事なことを忘れていたのか――名義貸しだけで無関係だと思ったからだ。既成事実があっただなんて。何故、あの場で奴も仕留めておかなかった?
いや、それよりも今は――。
「克也……っ!」
まずい。また彼女の心が壊れてしまう。もうあんな想いはたくさんだ。
「あの野郎……っ」
これ以上、誰にも自分から何ひとつ取り上げさせはしない――。
焦燥と怒りが辰巳の激情を煽る。理性と冷静な判断を鈍らせたまま、その身を牧瀬邸の二階へと走らせた。
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克也に頼んだ仕事――自分が牧瀬邸での仕事を終えるまでの間、潤を引きとめて時間を稼いでもらうこと。
二人がレストランに入店するのを見届けると、辰巳は幾分かの未練を残しつつもその場を離れ牧瀬良一郎の自宅へ向かった。
牧瀬医院の一階と連結させたもう一棟が牧瀬の自宅となっている。病院の方へバイクを停めると、辰巳はバックパックを肩に掛け、自宅二階から侵入した。
住人がしばらく立ち入っていない様子から、そこが潤の部屋だと推察された。
「親父に言われて拉致って来る可能性もある……かな」
懸念の言葉に溜息が混じる。自分が慎重さに掛けていたことを、この十数日間、何度悔やんだだろう。悔いを振り切るとばかりに強く左右へ頭を振ると、万が一克也が拉致された場合に備え、潤の私室へカメラを設置した。今更悔やんでも仕方がない。今夜でそんな心配も終わらせるつもりでいた。
階下へ降りて、扉の隙間からわずかに零れる光の筋へ向かって歩く。扉のロックは至極簡単な作りではあるが、ただ一度、引っ掛けた針金が施錠を解除した瞬間「カチャ」という音を響かせ、辰巳に一瞬だけ冷や汗を掻かせた。だがその後も気配が変わらぬことから、良一郎が何かに没頭していることが推察される。そっと扉を開けてみると、入口に面した書斎の最奥、デスクに据えられたパソコンへ夢中で何かをタイプしている彼の背中が視界に飛び込んで来た。
「こ〜んばんは、牧瀬良一郎センセ」
「だ、誰だ……お前、海藤の……っ!」
彼は大袈裟なほど肩を揺らして振り返ったかと思うと、震えた声で辰巳の正体を察したとうかがわせる言葉を発した。同時に彼の肘がデスクから書類をぶちまける。辰巳の足許に、一枚の写真が舞い滑って来た。見ればまだナチュラルブラウンだった頃の自分と、東京にいた頃の怯えた目をした克也を盗撮したものだった。
「……ふん」
面白くもなさそうに鼻を鳴らし、それを懐にしまい込む。それと差し替え手にしたのは、愛用のひとつ、トカレフだった。
「ひ……っ」
「ひとつ、尋ねたいことがあるんだけど」
あとずさる牧瀬の襟首を掴み、腰を上げた椅子へ再び座らせる。間髪入れずに彼の口へ銃口(マズル)を咥え込ませ、自分の胸元をもう一方の手で指差した。
「これ、俺の大事な宝物なんだ。もう親父に報告が済んでいるのか?」
問う声の低さに牧瀬は慄き、即座に首を横に振る仕草を見せた。
「ホント?」
確認しながら嘘は容赦しないともう一方に携えたコルト・ウッズマンを眉間に当てる。辰巳がわずかに右足を浮かせた時、不快な液体が立てる「ぴしゃ」という音が余計に辰巳を苛立たせた。
「親父の駒やってる割には、えらく小心者だな。ちびってんじゃねえよ、汚ねえな」
だが、嘘をつく余裕もないと判ったのは幸いだった。克也の存在がまだ海藤にはばれていない。それであれば――。
「ま、今回は特別に許してあげよう」
牧瀬に動いてもらわねば困る。少しは恐怖心を和らげてやろうと笑い掛けてやったのに。余計に強張り震え出す彼の様を見て、疲弊を感じながらも椅子を百八十度回転させた。パソコンに面した牧瀬に向かい、淡々と彼に指示をする。
「今から俺が言うことを、そのまま馬場に送信しな」
既に宛先は馬場にされてある。恐らく馬場を通して海藤へ辰巳や克也の情報を送るつもりでいたのだろう。間一髪で間に合ったことが、少しだけ辰巳を冷静にさせた。
「『これ以上協力は出来ない。これでも医者の端くれである。私を信じて縋る、幼い患者やその両親の瞳に私の良心がもう耐え兼ねた。ある人物に宛ててデータを本庁へ極秘に届くよう手配した。遠からず捜査の手がそちらにも延びるだろう。裏切りの贖罪に、君へ事前にその旨知らせておく。君が一医師としての誇りをまだ持ち、しかるべき選択をすると信じる。私は死を以て犠牲者へ罪を償おうと思う。』と。以上」
最後の一文を打つ牧瀬の指が、震えてなかなか打てないでいる。いちいち苛つかせる小心者の後頭部へ、銃口を強く押しつけた。
「今死ぬ方をご希望?」
冷ややかな問いを彼の耳許へ送り届けると、彼は幼児さながらの泣き方でしゃくりあげながら最後の一文をタイプし、送信ボタンをクリックした。
「はい、ご苦労さん」
言うが早いか、辰巳は彼の急所を強く打ちつけ彼を無理矢理眠らせた。これで、遅かれ早かれ裏切った牧瀬を海藤が生かしておくことはないだろう。自殺なり何なりの形を取って、勝手に向こうで処理してくれるに違いない。
(あいつは、そういうヤツだ)
ふと思い立つ。どうせなら、うっとうしい害虫な息子もまとめて処理してやろう。
辰巳は関係データに潤の名前を追記した。勿論、改ざんの痕跡を残さずに。
「きったね。ったくもう」
牧瀬の失禁で汚れた靴を、不届きにもキッチンで洗い流す。視線を流した先に、たまたまフルーツバスケットが目に入った。艶のよい美しく青い林檎の光沢に何故か魅了され、吸い寄せられるようにそれを手に取った。
「……どこの生産だ、これ」
思わず感嘆の声が漏れるほど、その絶妙な酸味にひと目惚れした。思考が『裏』から表の自分へと切り替わる。家の林檎パイの林檎を、次はここから取り寄せよう。コストは合うだろうか。そんなことを考えながら、包装されたままの林檎をバックパックへひとつ放り込む。
「ふざけろよ、ったく。クソ男女が」
喫茶『Canon』のマスターとしての思考が、またもや元の自分へと切り替えさせられた――牧瀬潤の声だ。
(克也はうまいこと逃げ切ったようだな)
こちらの用件は、もう済んだ。辰巳は潤が階段を上がり切った気配を確認すると、こっそりと、しかし堂々と玄関から牧瀬の自宅をあとにした。
病院側へ停めたバイクへ向かう手前に牧瀬個人の駐車場を通り過ぎる。当然と言えば当然目につく潤の愛車、その停め方の小さな違いにふと気づく。
(……防犯センサーが、オフになってる)
店に車で立ち寄る時、彼は必ず防犯センサーをオンにする。密かにいつも思っていた。
『車と同じくらい女も大事にしろよ』
と。そう呆れてしまうくらい車を大事にするあの若造が、青空駐車に近いこの場所でセンサーをオフにするとすれば、それなりのイレギュラーが彼の身に起こっていると考えるのが妥当だろう。
人の気配の有無を確認すると、彼の愛車にそっと近づき目視で車内を確認した。後部座席へ無造作に放り出されていた紙袋。そこから、克也が出掛けに着ていたはずの服が覗いていた。
背負ったバックパックを下ろしたのは、背に走る汗の気持ち悪さからだけではなく。
(保険が利いたな)
モニタと受信機を取り出し路面にセットしながら、自賛で焦燥を誤魔化そうとするが、巧く自分を落ち着けることが出来ない。手許が狂い若干手間取った。
どうにかセッティングを終えると、急いでイヤホンを押し当てる。傍受先は牧瀬潤の私室。映像は巧く拾えずノイズ交じりだったが、音声は意外とクリアに受信出来た。
『……ホント、そっくり顔してる癖に、気性はあの子と全然違うんだね』
(――克也と、そっくりな、子……?)
そのひと言で即座に浮かんだ、大きな吊り目が寂しげな少女。自分のミスの象徴とも言える、克也とよく似た女の子。
『心友だったんだってね、来栖の妹ちゃんと。好みの子だったんだけど、こっちが飽きる前に逃げられちゃってさ。キミのことは後輩から聞いてタゲってみたけど、ホント、性格があの子とは全然違う』
次の潤の言葉が、辰巳のリミッターを切った。
――まだ大人しくヤられてた分、翠ちゃんの方がマシだったな。
どこかで聞いた気がする名前。高木も同じことを言っていた。
「そうだ……こいつ、顔を変えていやがったのか」
二年ほど前、来栖翠のことを調べ翠の堕胎の事実が判った時、その父親として名前を貸した男の名が『牧瀬潤』だったことを思い出した。何故そんな大事なことを忘れていたのか――名義貸しだけで無関係だと思ったからだ。既成事実があっただなんて。何故、あの場で奴も仕留めておかなかった?
いや、それよりも今は――。
「克也……っ!」
まずい。また彼女の心が壊れてしまう。もうあんな想いはたくさんだ。
「あの野郎……っ」
これ以上、誰にも自分から何ひとつ取り上げさせはしない――。
焦燥と怒りが辰巳の激情を煽る。理性と冷静な判断を鈍らせたまま、その身を牧瀬邸の二階へと走らせた。
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2009.11.24 Tue. 13:01 -edit-
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